
喫茶店の二階で生まれ、育った私は、小さい時から、洋楽に親しんだ。どういうわけか喫茶店は洋楽、カフエは和楽と決まっていた。和楽といっても日本の流行歌である。
この両者の区分は厳格で、お酒を売るか売らないか、女を置くか置かないかで、はっきりとした色分けがあった。その境界を逸脱する事には当局の厳しい監視の目があった。畳の下から、漏れ聞こえる音楽を私は、物心のつく頃から聴いていたのである。
曲名は、クンパルシータ、セントルイス・ブルース、アルルの女、ペルシャの市場、森の鍛冶屋、カルメンの闘牛士、月光値千金、など、枚挙に暇がないが、私はこれらの曲を、すべて、諳んじていて、特にセントルイス・ブルースのイントロの部分は完璧に表現できた。四、五歳の頃である・
私がいまでも、和風の演歌や詩吟、民謡が苦手で、ジャズソングやラテン、シャンソンの方に耳が行くのは、この幼児体験が影響しているのである。
レコードは、勿論SPレコードで、数曲かけると、針を代える必要があった。レコードの溝が摩耗すると、針が隣の溝へ滑り込んで、同じメロデイーが反復されるので、客は笑い、ボーイさんは走り回った。これも、当時の喫茶店の風物である。
戦局が緊迫すると外人の帰国が始まり、所蔵していた電気蓄音機が市場にでた。それが、喫茶店やカフエに流れたのである。従来の小さな蓄音機と違い、音域の広さに驚いた。戦局がさらに進み、同盟国の音楽以外は、演奏ができなくなった。ナポリ民謡や、「会議は踊る」「狂乱のモンテカルロ」などは許された。秘かに潜入していた、アール・ハッターの「ラブズゴーン」は冤罪を免れ、生き残る事ができた。
戦争が終わり、友達になったアメリカ兵から、レコードをもらった。戦争中にできたカントリー・ミュージックやブギウギの目新しい音楽があった。
LPレコードが開発され、やがて始まるテレビや冷房とともに喫茶店の新たな武器となった。ベニーグッドマンのカーネギー・ホール・コンサートのLPレコードで、ウエイトレスの音響管理は楽になった。ジャズ・レコードや再生装置の買えないジャズマニヤが
たむろするジャズ喫茶店ができたが現在は殆ど消滅し、
僅かに残っていた名店の終幕がテレビで報じられている。
現在の喫茶店の客は、殆ど音響に関心が無い。環境ミュージックとして、有線放送が流れている。
