上の写真は、高尾山健康登山手帳に今朝押してもらったスタンプ
今日は、今年2度目の高尾山だった
昨夏以来6号路ばかり歩いていたが、今日は久しぶりに稲荷山コースを歩いた
稲荷山コースは、一部工事中のようで、途中から6号路に迂回して頂上を目指すことになった
工事が終わると歩きやすくなるのだという
稲荷山コースには、頂上に向かう後半に一部雨が降った後はぬかるんでとても歩きにくい場所がある
もしかしたら、工事はあそこの辺りかな…?などと想像した
さて、今回は日ごろ思っていることをひとつふたつ
ただし、以下書きかけの状態で一旦投稿するものである
(よくよく考えるとデリケートな内容のため省略)と報じられている
ついでにそれは世の中が悪いからだとも…
報道では、世の中などいつだって悪いのだ
その時々で「いまの世の中は良い」なんて報じられたためしはないように思う
報道に身を置いているわけではないし、専門家でもないから迂闊に(carelessly)は言えないが、報道では警告や注意喚起(heads-up)により重きが置かれているのだろう
いずれにしても、新聞でもテレビニュースでも日ごろ報じられる話の中心(トップ3くらいまで)は世の中の悪い面ばかりというのが常のように感じる
(上述と同じ理由で大幅にカット)
そうじゃない人ばかりがニュースのトップを飾るけれど…
われわれは、人間は生物(creature; living thing)なのだということを、少しばかり情報に振り回され過ぎて、頭でっかちになり忘れてしまっているのではないだろうかと感じる
価値観の多様性は大切だし
他人の価値観([sense of] value)や考えは尊重しなければならない
しかし、これはおそらく人間に特有なことであって
人間は本質的に、犬や猫、カブトムシやカマキリ、虎、鯨、蜂、ミミズなどと同様に生物だということを自覚することは、それより(人間に特有なこと以上に)もっと大切なことではないかと思う
他の生物との違いにばかり目を向けないで、同じ点に、われわれはもうすこしばかり意識を向けた方がいいかもしれない
人間がミミズとまったく同じだとは思わないから、向けるのはもう少しばかりでいい
ましてや、人間は神様でもなければ、品物でも、商品でもない
人間は考える葦であるとはいうが
(参考)
L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature ; mais c'est un roseau pensant.
roseau : 葦
faible : 無力な
pensant : 知的な
ほかの生物との違いにばかり目を向け、生物としての生き方をないがしろにしたり、忘れたりしていいはずがない
人間はそもそも生物なのだ「考える」が「葦」
「考える」からといって「葦」(生物)であることから逃れられるわけではない
さらに、高等生物、それは人間が勝手にこしらえた価値観だろう
生物に高等や下等などあるだろうか…
生存競争というと人間社会では経済的な側面がやや強く意識されるが
生物は、有史以前からそれを繰り返し、くぐり抜けてきた
敬われるなら人間より遥かに長い歴史を持つ生物だろう、人間よりむしろ彼らこそが高等生物の名に相応しいといえるかもしれない
何がいいたいのすっかり分かりにくい文になってしまったが、それはわかりやすい文に仕上げる時間がなかったからである(mokumechouscal)