年賀状という習慣
日本には昔から伝わる良い習慣が沢山あると思う
その一つに年賀状がある。
普段お世話になっている人へのお礼や挨拶であったり
何らかの理由で疎遠になっている方への安否の確認を
兼ねた挨拶が葉書一枚で済ませる事もできる。
元旦の朝届く うんざりするほど分厚い新聞は初売りの
チラシを見てすぐに楽しみは終わってしまうが
その後 10時頃 郵便屋さんのバイクの音が近づいて
くるのを待つのにこんなにワクワクするのは一年を
通しても正月三が日だけだと思う。
年賀状の束が届くと 直ぐに家族毎に仕分けを行い
自分宛に届く枚数の多さでささやかな優越感や
劣等感を感じる。 こんな事に一喜一憂できる事の
幸福に感謝したりする。
これが正月の家族のワンシーンだ。
ところで、毎年感じる事がある 沢山の方々から
年賀状を頂戴するのは嬉しい事だが お仕着せの
干支が印刷された年賀葉書に一言も言葉が添えられて
いない葉書を見た時の言い知れぬ寂しさだ。
昔は宛名も裏面も自筆で書くのが礼儀と言われていたが
そんなものは、今の時代 パソコンで印刷したもので
まったく問題ないと思う。
私は字を書くのが大の苦手なので 葉書の一言文章も
失礼とは知りながらパソコン打ちにさせていただいている。
まったく自分の事を棚にあげての物言いだが、
ただ形式的に出すだけのおざなりな年賀状が果たして
必要なのだろうか。
親族、親戚、恩師、上司・・・ やはり日本人として最低限
出さなければならない方々は当然出すべきだと思う。
そして、その時は 相手の方の顔を思い浮かべながら
一言で良いから何か言葉を添えたいものだ。
この数年 毎年、年賀状を出す枚数を減らしてきている。
経費的にも手間としてもバカにならないのも事実だ
幸か不幸か、今年は発送した年賀状の2/3程度しか
三が日に年賀状が送られてこなかった。
おそらく、他の人も 年賀状の「意義」について考え
直しているのかもしれない。
日本の素晴らしい風習をなくすのは忍びないので
もう一度、年賀状のあり方を見直してみたいと思う。