あいにくの雨でしたが、熊本城に行ってきました。
中世からこのあたりは肥後守護菊池氏の支配下にあり、一族の出田秀信が千葉城を築いたのが始まりです。その後、鹿子木親員(寂心)に隈本城を築かせて入城させしばらく鹿子木氏の居城となります。1550年、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、寂心の孫・鹿子木鎮有はこれを迎え入れますが、義鑑の子・大友義鎮によって追われ、以後は大友氏に協力した城親冬の居城となりました。
1587年豊臣秀吉の九州征伐の際には、薩摩の島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡し、代わって佐々成政が肥後の領主となります。しかし、検地の強行などが肥後国人一揆を引き起こし、その責任から成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主となり隈本城に入りました。
加藤清正は、1591年から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめ、1600年頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となります。1606年には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めました。
1632年、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入り、明治維新まで細川氏の居城となりました。
明治に入り西南戦争では西郷軍の攻撃目標となり、西郷軍約1万3000人の攻撃を、3500人で受けることになりますが、西郷軍は一人も場内に進入することはできず、3000人の包囲軍を残し、田原坂へ兵をすすめました。こうして近代戦争においても熊本城が難攻不落の城であることを証明しました。西郷隆盛は「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と独白したとまことしやかに伝えられています。

不開門、重要文化財。

東十八間櫓、重要文化財。
この、東竹の丸のエリアでは他に、田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、原之進櫓、北十八間櫓、五間櫓、平櫓が需要文化財に指定されています。

熊本城大天守と小天守を東側から見たいところ。昭和35年に外観復元されたものです。
大天守は一見、五層の天守に見えますが、二層目と四層目は構造的には屋根ではなく庇なので、三層六階の天守になります。

本丸御殿。
熊本城復元整備計画により復元されたもの。昭君の間などは特に豪華な作りです。

宇土櫓、重要文化財。
高さは19メートルほどあり、第三の天守とも呼ばれます。実際、小さな城の天守より大きいです。
宇土城の天守が移築されたものとの伝承もありますが、昭和2年の修理の際には移築の痕跡が認められず、現在では移築されたものではないと考えられています。

飯田丸五階櫓、平成17年木造再建。
他にも熊本城内では馬具櫓など復元整備が進められています。

戌亥櫓、平成15年木造復元。
奥には宇土櫓、大天守見える。

二の丸(天守の西側)から見た天守群。見事というほかありません。

スタンプは、頬当御門、はぜ方門、須戸口門、不開門の入場券売り場で頼むと出してもらえます。
中世からこのあたりは肥後守護菊池氏の支配下にあり、一族の出田秀信が千葉城を築いたのが始まりです。その後、鹿子木親員(寂心)に隈本城を築かせて入城させしばらく鹿子木氏の居城となります。1550年、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、寂心の孫・鹿子木鎮有はこれを迎え入れますが、義鑑の子・大友義鎮によって追われ、以後は大友氏に協力した城親冬の居城となりました。
1587年豊臣秀吉の九州征伐の際には、薩摩の島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡し、代わって佐々成政が肥後の領主となります。しかし、検地の強行などが肥後国人一揆を引き起こし、その責任から成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主となり隈本城に入りました。
加藤清正は、1591年から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめ、1600年頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となります。1606年には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めました。
1632年、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入り、明治維新まで細川氏の居城となりました。
明治に入り西南戦争では西郷軍の攻撃目標となり、西郷軍約1万3000人の攻撃を、3500人で受けることになりますが、西郷軍は一人も場内に進入することはできず、3000人の包囲軍を残し、田原坂へ兵をすすめました。こうして近代戦争においても熊本城が難攻不落の城であることを証明しました。西郷隆盛は「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と独白したとまことしやかに伝えられています。

不開門、重要文化財。

東十八間櫓、重要文化財。
この、東竹の丸のエリアでは他に、田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、原之進櫓、北十八間櫓、五間櫓、平櫓が需要文化財に指定されています。

熊本城大天守と小天守を東側から見たいところ。昭和35年に外観復元されたものです。
大天守は一見、五層の天守に見えますが、二層目と四層目は構造的には屋根ではなく庇なので、三層六階の天守になります。

本丸御殿。
熊本城復元整備計画により復元されたもの。昭君の間などは特に豪華な作りです。

宇土櫓、重要文化財。
高さは19メートルほどあり、第三の天守とも呼ばれます。実際、小さな城の天守より大きいです。
宇土城の天守が移築されたものとの伝承もありますが、昭和2年の修理の際には移築の痕跡が認められず、現在では移築されたものではないと考えられています。

飯田丸五階櫓、平成17年木造再建。
他にも熊本城内では馬具櫓など復元整備が進められています。

戌亥櫓、平成15年木造復元。
奥には宇土櫓、大天守見える。

二の丸(天守の西側)から見た天守群。見事というほかありません。

スタンプは、頬当御門、はぜ方門、須戸口門、不開門の入場券売り場で頼むと出してもらえます。