中世以降、諏訪を治めてた諏訪氏が居城していた高島城(茶臼山城)は、現在の高島城よりも北に位置する茶臼山にありました。

武田氏の侵攻により諏訪頼重らが滅ぼされると、諏訪支配の拠点は上原城(茅野市)となりましたが、長篠の戦以降再び高島城が諏訪支配の拠点となります。

 

武田氏の滅亡後、諏訪郡(および甲斐国)は織田氏の家臣河尻秀隆の領国となり、本能寺の変後に諏訪頼忠が諏訪に戻り金子城を築きます。しかし、頼忠が奈良梨(武蔵国)へ転封となったため、日根野高吉が茶臼山の旧高島城に入りました。

現在の高島城は高吉が新たに諏訪湖畔に築いた城です。

 

1601年日根野氏は壬生藩(下野国)に転封となり、諏訪頼水が2万7千石で再び諏訪の領主となり明治維新まで続きました。

 

三之丸御殿裏門(御川渡門跡)

 

1970年に作られた復興天守。

 

冠木門と冠木橋

 

 

角櫓跡。現在は1階が茶屋になっている。

 

続100名城スタンプは天守の1階においてありました。

 

躑躅ヶ崎館は甲斐国守護である武田氏の居館で、1519年から信虎により川田館(あるいは石和館)からの移転が行われたと言われています。信虎は居館の移転とともに有力国人の移住も行い、居館、家臣団屋敷地、城下町が一体となった本拠地作りを行いました。信虎、晴信(信玄)、勝頼の3代にわたりおよそ60年、甲斐武田氏の本拠、政庁として機能し、甲府市の原型となりました。

 

1575年、長篠の戦いでの敗戦により、勝頼は新たに新府城を築き1582年に躑躅ヶ崎館から移転しました。しかし、織田氏の甲州征伐により、間もなく武田氏は滅亡してしまいます。

 

武田氏滅亡後、織田家臣の河尻秀隆は躑躅ヶ崎あるいは岩窪館で政務をとったと言われていますが、本能寺の変の後、秀隆はその後の混乱の中命を落とします。その後に入府した徳川家康により、改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれました。

しかし1590年に徳川家臣の平岩親吉により甲府城が新たに築城されると廃城となり、その後甲府は甲府城を中心とした城下町として発展しました。

 

現在跡地には、武田神社があり、武田氏館跡として国の史跡に指定されています。

 

  

拝殿

 

甲陽武能殿

 

宝物殿と神符授与所に100名城スタンプはあります。

 

甲府城は、徳川家による甲斐支配の拠点でした。本能寺の変後、織田家家臣河尻秀隆が殺害され領主不在となった甲斐の支配に乗り出した徳川家康は、当初躑躅ヶ崎を支配拠点としますが、1583年平岩親吉に命じ甲府城の築城を計画されたとされています。

しかし、小牧・長久手の戦い後、家康は豊臣政権に臣従し、小田原合戦で北條氏が滅亡すると関東に移封されます。従って、甲府城の本格的な築城は、羽柴秀勝、加藤光安、浅井長政・幸長親子といった豊臣大名時代に行われ、主に加藤光泰の時代に築城されたと考えられています。

 

江戸時代は、徳川義直(家康九男・尾張藩初代)、徳川忠長(秀忠次男)、徳川綱重(家光三男)など親藩大名が治めますが、1705年柳沢吉保が城主となります。1724年に柳沢吉里(吉保嫡男)が大和郡山に転封されると幕府領となり明治維新を迎えます。

 

 

内松陰門

 

稲荷櫓

ここに100名城スタンプあります。

 

天守台

 

鉄門

 

中の門跡

遊亀橋

 

姫路城は1346年に赤松貞範により築城されたとの説が有力ですが、この時代の物は小規模な砦のようなもので、城郭と言える規模のものが築かれたのは戦国時代後期の小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆親子によるものが最初であるという説もあります。

その後、黒田孝高が城代を務め、羽柴秀吉が播磨に進駐すると秀吉に仕えることとなった黒田孝高は羽柴秀吉に城を譲ります。秀吉は姫路城の大規模な改修と拡張を行い中国攻めの拠点としました。

秀吉が大阪城に移って以降は羽柴秀長、また秀長が大和郡山に転封となって以降は木下家定が入りました。

 

関ヶ原の戦い以降、池田輝政が三河吉田15万石から播磨一国52万石で姫路に入ると、豊臣恩顧の西国大名を牽制する目的で大改修と拡張を行いほぼ現在の姫路城となります。

1615年、輝政の後を継いだ光政が幼少であったことから重要地を治めるには不安であるという理由で因幡鳥取に転封されると、本多忠政が15万石で入ります。

その後、奥平松平家、越前松平家、榊原家、などが何度か入れ替わり入城しますが、1742年に上野前橋城より酒井氏が入城し、そのまま幕末を迎えます

しかし、もともと52万石の大名の城として築かれた姫路城を維持することは石高15万石の譜代大名には、幕府要職の責務も相まって藩の経済を圧迫することになりました。

 
明治になり廃城令が出されると姫路城も競売に出されたり、陸軍の歩兵第10連隊の設置により建物の一部が取り壊されるなど解体の危機はあったものの、城郭を保存しようという機運の高まりにより、何回かの改修を経て現在に至っています。
 
国宝に指定される建物は天守を含め8棟、重要文化財は櫓、門、塀など74棟、ユネスコ世界遺産にも登録される、日本を代表する城です。

 

姫路城大天守。左には西小天守。

 

菱の門。片側だけ石垣に乗る構造が珍しい。

 

天守群は右から大天守、西小天守、乾小天守。

右隅はりの一渡櫓とぬの門。

 

平成の大修理により新しくなった屋根目地の漆喰。

壁だけでなく、屋根目地にも白漆喰を用いることで、

屋根も白く見え、まさに白鷺城の名にふさわしいたたずまいとなる。

 

右から、化粧櫓、長局(百間廊下)、ルの櫓など。

 

太鼓櫓。

 

播州皿屋敷で有名なお菊井戸。いちま~い、にま~い。

 

ぬの門。

 

扇の勾配。

扇を開いた形に湾曲させてあり美しさと同時に石垣を高く積むことができる。

熊本城の武者返しと同様、勾配がだんだんきつくなるので、

敵兵は最後まで登ることが困難になる。

 

100名城スタンプは入場口左手の管理事務所においてあります。

蠣崎氏は大館を居城としていましたが、1599年、蠣崎氏は性を松前と改め、1606年福山(松前)に陣屋を築きました。当初、蝦夷地では米がとれないため、松前氏は無石の島主扱いでしたが、1719年に大名に昇格しました。

 

後に、ロシア艦隊などが来航するようになると幕府は北方警備を目的に福山館改築(松前城の築城)を命じます。

当初は地形的に要害となる函館に築城すべきという意見もありましたが、予算や福山城下の経済への配慮などから松前城の築城に落ち着きました。

 

1854年竣工と日本式城郭としては石田城(長崎県)とならび最後期のものです。

戊辰戦争では榎本武揚らの旧幕府軍が五稜郭制圧後に松前城も攻撃し、わずか数時間で落城したとの事です。

 

後に函館戦争で旧幕府軍が敗れると再び松前氏の領有となりますが1871年廃藩置県により廃城となりました。

 

天守はその後1941年に当時の国宝に指定されますが、1949年に焼失し、1960年鉄筋コンクリート造りによる外観復元がされました。

搦手二ノ門。2000年に復元。

 

天神坂門。2002年復元。

 

松前城資料館入り口で100名城スタンプが出してもらえます。

 

西から見た天守。

 

本丸御門。

現存で国指定重要文化財。

 

天守と本丸御門。

天守台が低いせいか、それなりに立派な層塔型3重の天守なのですが、

あまりそそり立つ感じがしません。

 

本丸御殿玄関。