おはようございます
今日から、まじで自分のテスト勉強しなければ
でも、その前に心の中の気持ちを整理。
「赤ちゃんが目の前に来た人に目を合わせたり、その人に向かって笑う」
これ、なんでかわかります?
別に来た人が変顔してるわけでもないし、ただ顔が見えただけで。
これね、目を合わせるのは相手とコミュニケーションをとろうとしている動きであり、自分が笑うと相手も笑い抱っこしてもらえたり可愛がってもらえることを本能的にしっている。
そして、繰り返されることで学習もしている。
誰も教えてなくても、できるんですよねぇ。
この赤ちゃんの笑顔の威力は、人の女性ホルモンまで影響を与えて作用する程なので、すごいチカラなわけです。
虐待される子は、親の問題だけではなくて、実はこの問題をその子自身がもっていて、物凄く育てにくい子である場合が結構な率であると、心理学の授業で学んだ。
(児相勤務経験のある先生の講義)
お母さんが笑顔だから、つられてわらってるんじゃないの?と思う人もいるかもだけど、
お母さんが笑っていても、目を合わせたり笑顔で返せない赤ちゃんはいるのです。
これ、乳幼児健診で保健師さんはチェックしてます。
自閉傾向が強いと。
ただ、それだけでは何も判断できないので、その時点では「気になるかな?」くらいで終わってしまう。
幼稚園や保育園で友達ができないとか、仲良く遊べないとかが出てくると、そこの先生が気にかけてくれる。
が、そこでも本人の知能が高くて特に大きな問題とされず、先生や親も気付かずスルスルーっと小学校に入ると、どえらいトラブルになる。
クラスメイトとのやり取りでトラブルが続くし、その理由を本人や親や先生も気がついてない場合、本人は怒られ責められる、いじめられるわけで、結果自信を無くして不登校になりますよね…。
小学生は小学校独自のルールを教えられて、それを守ることや、人と同じかどうかを一番気にする発達段階なので、そこからはみ出す子に対しては、物凄い攻撃が入るんです。
ある意味、大人の世界よりも、純粋な気持ちで攻撃してくるので、ルールを守れなかったり、空気が読めなかったら省かれていきます。
ぼっちになってしまうのです。
不登校や引きこもりが長く続いている場合、ここに本人や家族が気が付かないと、なかなか良い方には進まないかなと。
家族内では笑顔になることもあるし、出かける時は人と話せるから、うちは違うと思っているかもしれないけど、そこは要注意で。
家族は慣れているし、譲歩します。
兄弟姉妹に手厳しく指摘されることはあるけど、家族が揃って同じタイプの場合もある。
また、家の外でお客さんという立場でコミュニケーションをとっている場合、それは相手はサービス提供者であり、対等ではないから、こちらが笑顔をみせなくても笑顔で接客してくれるし、譲歩してくれるし、文句は言われないんですよね。
それが、学校のクラスメイトや職場の人となると、立場は対等だから、こっちが笑顔もなく、配慮もなく、遠慮もなく言いたいことだけ言ってしまったら、相手は「何なんあの人」「ちょっとカチンとくる。」となるわけです。
それを面白がってくれ人がいたり、あぁそのタイプねっと理解してくれる人がいればラッキーですけども。
社会は厳しいですよ
なのでね、
不登校や引きこもりの対応で、そこから目を逸らしたり、気づかないフリをしていると、多分解決はしていきません。
自分の子供がそうでないと思いたい。
その気持ちが、子の成長の足枷になっていないか、ちょっとチェックしていく必要はあるかもしれません。
「人に協力してもらえるチカラ」
これは、生きていく上で、かなり重要です。
人は1人では生きていけないからです。
で、タイトルの話。
生きていれば、問題は起きる。
問題というか、ライフイベントは次々やってくる。
入学、卒業、就職、結婚、出産、子供の入学、子供の卒業、自分の再就職、親の介護、自分の病気、老化などなど
生きているだけで、次々やってくる。
人はそれに合わせて考え方を変えたり、生活を変えたりします。
で、他の人にも協力してもらわないと乗り越えられないものもあるのです。
その時にも、
「赤ちゃんが笑う能力」=誰かに愛され気にかけてもらえる能力
を発揮しないとできないわけです。
赤ちゃんはまだ笑ってなくても可愛いけれど、
42歳の中年のおばちゃんは可愛くない。
だから、やっぱり協力をお願いする態度や姿勢をとって、アピールしなければならないし、
また協力してもらったら言葉や態度で感謝を伝えなければならないと思う。
こちらが一生懸命やれば、向こうも応援してくれる。
赤ちゃんも、中年も、要は同じなんです。
だから、不登校対応で、学校や適応指導教室の見学や面談に行った時、
保護者が先生に
「どうせ通わないと思います」と言葉を発してしまうのと、
「今は家から出られない状況なので困っています。誰か1人でも良いので、少しずつ信頼関係を作って、外との繋がりをもってくれたらいいのですが。」
と伝えるのでは、どちらが応援しようと思いますか?
前者だと、じゃあなんで学校や適応指導教室の見学に来たの?
それなら、自分達の労働の時間も無駄だ。
って、思われてしまいませんかね?
商売が絡まないコミュニケーションは、相互作用で成り立つものなので、その辺は気をつけていかないと上手くいかないと思う。
前者が、
「子供が通うことを期待したら、通えない時に親の自分が傷つく」から、心を守る防衛のために発した言葉だとしても、それは相手がよほど素敵な人でないと理解してもらえないと思う。
その学校や適応指導教室に、もしかしたら子供の人生を良い方に変えるような、素敵な先生が隠れているかもしれない。
なのに、出だしで「防衛」してしまったばかりに、その可能性をへし折ってしまうことになるわけです。
長女は、中学で素敵な出会いが沢山ありました。
小学校では上手くいかなくて、学校への期待がなかなかもてなかったのだけれど、
中学の先生が「学校」や「勉強して成長することの楽しさ」を教えてくれた。
また、「先生」という大人に対してのイメージも、大きく変わったと思う。
できないことを無理矢理させてくる人たちというイメージから、個を尊重し、自分の成長を喜んでくれる存在へと変わったと思う。
これは、担任の先生が自主学ノートに書いてくれたメッセージ
↓
↓これは今年度一度も平日に通所しなかった適応指導教室の先生からのメッセージ。
こんな風に、どこかには良い先生が隠れています。
先生方には、常に長女の家の中での成長や変化を報告し、それは先生方の暖かい応援があったからだと感謝をフィードバックします。
本当にダメな先生もいるし、今でも許せない先生もいます。
だけど、それにこだわって学校全ての先生に敵意を向けたり防衛しまくるのは、素敵な出会いを失うことにもなり、とてももったいないことです。
協力してもらいたければ、こちらも協力してもらえるような態度が必要。
振り返って考えると、そんなふうに思います。
かなりズバッと書きました。
かなり土足で踏み込んだかもしれません…
まだこれを言われる段階では無かった方、ごめんなさい…