こんばんは
今日はリハビリのため頑張ってウロウロ歩いていたので、何名かの看護師や医師に声をかけられた。
「今どこの部署におられるんですか?」と、退職したことさえ気が付かれていなかったりもした。
色々話して、
「で、今はどこで働いているのですか?」と必ず聞かれる。
今は子供達に手がかかっているので働けなくて、ただのおばちゃんです![]()
年齢的に小さい子がいるようには見えないだろうし、手がかかるって意味を説明するのが難しいのだけど。
私は最近、家からほぼ出てないし、社会から断絶されている。
いや、学校関係の先生達とはかなり関わっているけれど。
なんか不思議だなー。
女性って、結婚したり、出産したりで、そのたびにガラッと人生が変わる。
私の場合、本当に違う人になったのかと思うくらい、生活がかわるのです。
今、病院のベッドでブログを書いていることも、すっごいすっごい不思議だ。
さっき、石原さとみのアンサングシンデレラ
を見ていて、若い頃を思い出したなー。
一人の患者さんにあそこまで深く関わっている薬剤師さんをまだ見たことはないけれど。
昔、看護師は結構プライベートでも患者さんと関わっていたのです。
就職し最初に配属された病棟は整形外科。
そこには17歳のジャニーズにいてもおかしくない男の子が入院していました。
サッカーの合宿で頭からプールに飛び込み、底で頭を打ち頸椎損傷。
首から下が麻痺してしまいました。
前病院で大きな褥瘡ができ、その治療で長期入院となっていたのです。
最初に挨拶をしたとき、リクライニングの車椅子に乗った彼は、とても爽やかに微笑んでくれたのです。
その時、思いました。
私だったら、そんな風に笑えるかな?って。
心の底から凄いなって思ったのです。
その子の担当は私の教育係をしてくださった先輩でした。
今では許されていないけど、勤務の後に残って、その子の髪を染めたりしてあげていました。
その子は長期入院後、他県のリハビリ病院へ転院した。
しばらくして先輩からその子のお見舞いに誘われました。
先輩の運転でワクワクしてお見舞いに行くと、見違えるほどリハビリで自分の事ができるようになっていました。
そして、その子を先輩のごく普通の軽自動車に乗せてドライブに行くことになったのです。
その先輩には弟さんがいて、その子のことも同じように関わっておられたと思う。
三人で南港へ行き、アイスを食べながら、リハビリ病院でのことをその子から聞きました。
高身長の脊損の患者さんを、普通の車に乗せることはとても難しいのだけど、その子と先輩と私で何とか乗り降りした。
行くぞ!って気持ちが強かったのかも。
私はその子と先輩から沢山のことを学ばせてもらった。
その後から脊損で入院となった患者さんには積極的に関わるようになったし、自分の病棟では絶対に褥瘡をつくらせない!と、かなり予防に力を入れていた。
東京に研修に行って資格を取るようすすめられたけど、結婚したところで旦那とは私の実家で三年間同居することになっていたので、状況的に不可能だった。
実習指導者講習に行くように言われた日に、妊娠しましたと師長に伝えることとなり、それもなくなった。
自分の可能な範囲で研修に行かせてもらったけれど、やっぱり逃してしまったことは数え切れない程あるなと今も思う。
きっと、そんなお母さんは沢山いるよね。
でも、きっと今までのごく普通と思われる経験も、これからの人生の糧となっている。
さてと。
退院したら、本格的に看護学士取得について調べよう。
今の自分にできること、一歩一歩一つ一つ。
卵巣が腫れていると言われた時、医師の表情と、腫瘍マーカー検査が追加されたので、癌かも?と頭をよぎりました。
卵巣癌だったら、卵巣だけじゃなく、子宮も大網もリンパも切除して、術後は化学療法となるところだった。
卵巣癌は、それほど予後が悪いのです。
まだ病理検査の結果は出ていないけれど、取り出したものからは悪性の所見は無かったと。
なんかね、命びろいしたなって思ってる。
前、職場の主任に言われた。
「よくピンチに陥るけど、ギリギリのところで挽回できるよね」って。笑
人生の曲がり角をもう6回くらい曲がった気持ちだけど、その先もその時の自分の置かれた状況で良いと思う方向へ、一歩ずつ歩いて前に進もうと思う私なのでした。