あまり人には理解してもらえないから

話したことはほぼない


わたしの


死生観


簡単に言ってしまえば

知ってるか,知らないか

なのだ。


1年に一回「そういえばあいつどうしてるかなぁ、元気してるかなぁ」と思い出す人


お店の常連さんだけど連絡先も住所も名前も知らない人


あまり投稿しない芸術家


かつて大好きだった人


これらの人達が死んだ時、

私はどうやって知ることができるだろう?

私と、死んだ人間の関係性を知って遺族や共通の知人が連絡してくれるだろうか?


では、もし連絡が来なかったら?

その人は私の中で永遠に生き続けるのだ。


デヴィッドボウイも、谷村新司も

私の人生を救ってくれた大切な人だけれど

会ったこともない。

つまり、訃報が流れない限り彼らの音楽は永遠に私のもので、私の中で永遠に生きているのだ。


では、私が死んだら?

あなたはどう知ることができるだろうか?

私の親族が「諸橋杢子は亡くなりました。回顧展やります」


とでもSNSで投稿しない限りあなたは


「諸橋杢子、投稿もないし個展もやらないけど、芸術家辞めたのかな」


くらいのものなのだ。


私が死ぬ直前に100点作品を作っていたとして

遺族がそれらを中の人として毎週一作品投稿したとしたら、2年は私は生き続けるのだ、あなたの中で。


つまり、

知ってるか知らないかで

生き続ける。

曖昧なものなんだ。


そして、今この瞬間にだって世界のどこかで誰かが死んでいる。

私は近しい人も会ったこともないどこかの国の人の

生 も 死 も

同じなのだ。


生も死も並列で

知人も他人も並列で、

だから、私は


(この言葉は人によって凄い嫌だと思うが)

(大体の人が諸橋杢子、冷たい人間...最低と思うだろう)


誰が死んでも悲しまない。


つまり、全てを並列に感じているからこそ、

世界のどこかの誰かがニュースにもならずに死んでいる..それを全て悲しんでいたら

私は365日24時間悲しみ、その人の死の原因に対し恨んだり怨んだりしなければならなくなる。


戦争、病気、イジメ、ストレス、差別...


そんな悲しみや怒り、憎しみだけの人生は悲しすぎる。

だから、私はその人たちの分まで

今のこの瞬間を大切に生きる。


これらの死生観がどう生まれたか?


発端は22歳くらいの時

母親の母(後妻さん)が亡くなった時に、

ガンで亡くなったのだが息を引き取る直前に「...ア...リ......ガ.....,..ト」と聞こえるような息遣いになった時に私の生みの母親が「おばちゃん、ありがとって言ってるね」と言った。

(生みの母親の影響でその人は“おばちゃん”と呼ばれていたが、私は親族で一番大好きだ。“おばちゃん”と私も呼んでいたが、それでも血の繋がり以上の何かが彼女にはある。今でも。)

その言葉を聞いた医者が「あ、これは亡くなる直前の呼吸のなんちゃら状態で、そう言っているわけではないのですよ」と言った。

そう!

つまり、それを知らなければ“おばちゃん”は死ぬ直前に「ありがとう」と言っていたわけだ。


でも,私にはその医者の言葉は大きくて、“ヒト”として正解だったのかは分からないが、“医師”として嘘なく医学術的に論理的に言葉を発したのだ。


生と死 の次に来る言葉は

私は“後悔”だと思う。


誰かが死んだ時

(敢えて“亡くなる”という言葉を最初から使っていない意味が伝わっていたら嬉しい。)

「もっと、お酒呑ませてあげればよかった...泣」

「タバコ辞めなさいとか言わないで、好きなだけ吸わせてあげればよかった....泣」

「脂っこいもの、好きだったのに...好きなだけ食べさせてあげればよかった」


とか聞くけれど,

そんなこと死んだ後に言ったって、後悔したって仕方ない、と私は思う。

だからこそ,私は明日死んでもいいように生きている。


少し脱線するが、

酒と煙草とドラッグの話。


私はどれも《人に迷惑をかけなければ》好きなだけするべきだと思う。

某賢携帯電話を作ったあの人も、音楽の歴史を100年早めたあの甲虫楽隊たちもドラッグやってたと聞いたことがある(ここでも知ってるか,知らないか、嘘か,本当か、眉唾か)。

でも、甲虫楽隊は当時の人たちの心を軽くし、未だに誰かの心を解放してくれている。


では、某賢携帯電話製作者も甲虫楽隊も、

その人達が

ドラッグをしていなかったとしてそれらの媒体が生まれなかったらどれだけの人が苦しんでいた?と考えると....


(話は戻る)

タバコを吸うことで、酒を飲むことで、ドラッグを摂取することで

その人が救われて、それによってストレスが緩和されたり、家族に暴力を振るわなくなったり、部下に対して優しく接せれる ー 優しい世界 ー

が作れるなら

私はそれを悪だとは思えない。

もちろん法外の事はよくないことだけれど...。



傷つく人が、“より”少ない選択肢を選ぶ


私はそれを心がけている。


さて、死生観。

わたしが死んだら,誰も悲しまないでほしいと思っている。

私は毎日を必死に生きているし,後悔を残さないことを日々大切にしているから

悲しむ必要なんてないのだ。


なにか原因があったとしても、それを恨まないでほしいと心から思う。

私が作った作品達は残っているし、私が誰かに話したことや思想はその人の中に残っている。


生きていようが死んでいようが、


そういや諸橋杢子っていたなぁ


と3年に一度くらい

思い出してくれたら


わたしは幸せです。