おばあちゃんありがとう。 | モコログ~Go*Go*RadioDays~

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~エフエム岩手「モコの夜はこれから!」(毎週火曜日PM7:00~55)

のパーソナリティ、モコのゆるい風まかせなブログです




お心遣いを頂いた皆様、生前お世話になった皆様に感謝を込めてご報告させていただきます。

4月19日 祖母ヨシコが旅立ちました(享年97歳)

たくさんの方にお世話になり、本当にありがとうございました。
ご報告が遅れて申し訳ありません。
97歳、大きな病気もなく、最後は彼女らしい時間を過ごすことができました。
ありがとうございました。


以下は自身の記録のためにつらつらと書きなぐっております。
かなりの長文、乱文ですのでお許しください。

(長すぎる駄文ですので一応スルー推奨しておきます(笑)



********

今年の二月まではとても元気で、よく食べ、おしゃべりをし、杖を使用しながらですが北星荘さんの中を闊歩しておりました。

突然意識が混沌として救急車で運ばれました。
その際、私が病院で一通りの検査が行われる間待っていました。
病院とはほぼ無縁だった祖母。
検査の間はとても嫌がり、看護師さん達をてこずらせておりました。

96歳ですからお年なりの痴呆症状もあり、何が起きて何をされているのかわからなかったようなのです。
病院によく通っていた方なら「治療」されているのが理解できたかもしれないのですが、祖母にはそれがわからず、見ず知らずの人が突然自分の体を拘束していると思っていたようです。
大きな声で罵声を浴びせ「無礼者!」などと叫んでいて
その時は正直「元気だな、笑っちゃうな」と思っていました。

一通り検査が終わり、お医者様の説明を受けることになりました。
もう年だし、意識を失ったときに転倒したと聞いていたので、骨が折れてなければいいな…と思って先生の待つ部屋に入りました。

まず第一声が

「いろいろと悪いところがあるようです。まずはご説明しますね」

年齢も年齢ですからそうかもしれないなあと思って聞いていました。

「重篤です。このままでは数日もたないですね。今の状態でご飯を食べたり、歩いたりしていたなら奇跡ですよ」

は?と思いました。
何を言ってるのかなと。
お恥ずかしい話ですがほんとにのんきに構えていたのです。

そのあとレントゲン写真を見ながら説明を受けました。
だんだん涙がこみあげてきてしまいました。
本当にあちこちが悲鳴をあげている身体でした。
白血球が異常に少なく、血液も作れない状態でした。
元気だと思っていました。
祖母自身も「ゆるゆると100歳まではいきそうだわ」なんて冗談を言っていましたから。
先生がおっしゃいました。

「認知症だったから元気だったということも言えます」

我慢していた涙がこぼれてしまいました。
マスクをしていてよかった。
認知症で救われていることもあったんだなと目からウロコでした。
高齢ですからいつどうなってもおかしくないなとは思っていたんですが、身体が限界だったことに気づかなかったこと、そしてわからないから元気でいられたことがショックでした。

そのまま入院になりました。延命治療などは行わないという両親の決断のもと。
病院では感染などの防止からだれも面会ができない部屋に入りました。
父や伯母でも面会ができないのです。
必要なものを届けるときに担当の看護師さんからお話を聞くだけです。

もともと気丈で自尊心の高い祖母、ストライキを起こしてしまったようで、一切ものも食べず、目も開かない、治療や検査のたびに罵詈雑言を浴びせるといった態度を貫いておりました。

約1か月ほどたつと…なんと
抗生剤が効いて、感染症はとりあえず治りました。
この生命力には驚きました。
もちろんほかの諸々の病気は高齢により、治療できる状態にはないのでそのままなのですが。

お医者様と今後についての面談がありました。
父と私で行きました。
その際、病室に入ってもいいと言われ久しぶりに祖母の顔を見ることができました。
看護師さんが体に触るとひどい声をあげる、もしかしたらそんなふうになるかもと言われ、恐る恐るそばによってみました。
祖母は眉間にしわを寄せて固く目を閉じていました。

耳元に口を寄せて

「おばあちゃん?わかる?」
というと、わずかに顔を動かしました。

「朋子だけど。おばあちゃんに会いに来たよ」

しばらく黙っていましたが小さな声で

「ああ、なんだ、ともこかー」

と言いました。
看護師さんが「ご家族の方だとわかるんだねー」と。

それから手を握って顔を撫でました。

「おばあちゃん、あのね、ここは病院でね。おばあちゃんの体に悪いところがあってね、それを一生懸命治療してくれているんだよ。どこにいるのかわからなくて不安だったんでしょ?ごめんね。でもここは大丈夫だから」

というと祖母が小さく頷きました。

「もうすぐ退院で迎えにくるから。それまで看護師さんの言うこと聞いてね。治してくれるんだからね」

そう言うと、今度は「うん、わかった。ありがとう」とはっきり答えました。
目は閉じたままでしたが。

先生はすごく驚いていました。

そのあと、退院してまた北星荘さんに戻ることができました。
「延命治療はせず、看取りをふまえて、できるだけヨシコさんらしく過ごす」
と決めて。

忙しい時期と重なり、なかなか父も母も動けずいたので、できるだけ毎日北星荘に通いました。
 
北星荘に戻った途端、顔色もよくなり、少しずつおしゃべりもするようになり、「点滴よりウィスキーとチーズが食べたい」などと冗談を言って笑顔を見せてくれる時もありました。

でもだんだん食べることができなくなくなりました。

そのうちに展勝地の桜まつりが始まりました。
ご存じのとおり今年の桜はとても早く咲き、開始そうそうてんてこ舞です。

なかなか北星荘に行くこともできません。
容体が変化したなら父に電話が入ることになっていましたが、そんな電話も無く、盛岡や千葉から伯母たちも来てくれてるし仕事に没頭していました。
忙しいのが一段落したら、食べられないかもしれないけどまた大好きなチーズのアイスクリームを持っていこうと思っていました。

4月19日
朝4時ころ、父の携帯が鳴りました。

展勝地の桜は満開の日です。

6時頃、会いに行きました。
まず、おばあちゃんの大好きなお三味線のテープをかけました
それから手を握って
「おばあちゃん、ともこだよ。今日は桜が満開だよ」
といいました。
北星荘の部屋の窓から祖母の大好きなチューリップがたくさん咲いているのが見えました。
「なんと。水仙もチューリップも咲いています。すごくいい日だよ」
祖母の手を握りながら話しかけます。
「そして青空だよ。おばあちゃん、今日は最高の日だよ。大好きな曲も流れてるの聞こえる?」

それから仕事に行きました。
そのあと「持ち直した」と電話があったのですこしほっとしたのもつかの間、
展勝地は今期一番の大混雑でした。
一応電話のボリュームは最大にしておきました。

父から電話が鳴りました。

目の前にはお客さんが行列になっていました。
スタッフも休むことなくきびきびと働いてくれています。
車は詩歌の森あたりまでの大渋滞。



13時42分、祖母は桜が満開の青空へ逝ってしまいました。



私だけ、最後の最後に立ちあうことができませんでした。

翌日が火葬、翌々日が葬儀。

葬儀の日はラジオの日。

どちらも出ることができませんでした。

不謹慎かもしれないけど。
おばあちゃんは杖が嫌いだから、私が一緒に行って手を引いてあげたいと思いました。
桜並木の上をゆっくりゆっくり一緒にのぼって行ってあげたいと思いました。

不思議なことに
我が家の16歳になる愛犬フジコが翌日亡くなりました。
きっと私の代わりにおばあちゃんを案内しに行ってくれたんだと思います。

私は小さい頃、保育園やベビーホームにお世話にならずに
おばあちゃんに育ててもらいました。

おばあちゃんのご飯を食べて、おばあちゃんの子守唄を聞いていました。
よくケンカもしました。
くそばばあ、死んじゃえ!としょっちゅう思いました。
とても気が強くて、でもかわいいところもたくさんあるおばあちゃんでした。
ミシンであっという間にワンピースを縫ってくれたり、お料理が上手で
いつもきっちり掃除がしてありました。
季節のお花をさりげなく玄関に飾ったりしていました。
お酒が好きで、映画がすきで、演歌が嫌いで久保田利伸が好きでした。
家の図面を引いたり、泥棒をほうきで追い回して撃退したり、スーパーおばあちゃんでした。
おばあちゃんがいればなんでも大丈夫な気がしていました。
安心していられました。
車の免許だけは持っていなくて悔しがっていました。
おばあちゃんに勝てるのはそれくらいしかありません。

小学校の時、祖父母を題材にした作文を書く宿題で
「ヨシコさん」とう作文を書きました。
おばあちゃんではなく、ヨシコさんと書き、すごく喜んでいたのを思い出します。

20日の朝早く、ものを言わないおばあちゃんに会いに行きました。
とても穏やかでかわいい顔になっていてびっくりしました。
悲しいけど、うれしくて涙がこぼれました。
最後はとても安らかだったと聞いて、いろいろなものに感謝しました。
そして神様に感謝して、祖母をよろしくお願いしますと言いました。


おばあちゃん、ほんとにありがとう。
初孫のくせに一番ダメな孫で申し訳ない。

おばあちゃん、おやすみ。
またね。