私が鉄道に興味を持ったのは、何も突発的なことではない。
私の生家は、JR和歌山線の線路に隣接されている。
列車が通過する度に、家には走行音が響き、振動が伝わる。
私は、この世に生を受ける前から、鉄道の走行音に慣れ親しんでいたのかもしれない。
よって、私は生まれつきというより、生まれる前から鉄ヲタになる素質を持っていたのであろう。
無論小さいころは鉄道が大好きだった。
毎日飽きることなく家の窓から、クリーム色と赤にペイントされた列車が走るのを見ていた。
親から鉄道車両の百科事典などを買い与えられ、私は喜んでそれを読んでいた。
列車の走る音が、朝は目覚ましに、夜は子守唄がわりになっていた。
家の近くには機関区があり、家の裏はたくさんの線路がひかれていた。
列車が走るとき、微妙な走行音の違いで、どの線路を走っているのか分かった。
和歌山線の線路は「ガタン・・・、ガタ、ガタン・・・」
機関区から出庫する列車用の線路は「ガッタガッタダンダン・・・ダンダン・・・ガッタガッタ」
機関区へ帰る列車用の線路は「ダンガッタン、ガッタン、ガッタン・・・」
といった具合だ。
おそらく今は線路が張り替えられ、継ぎ目もかなり変わっているだろう。
鉄道が走るときの「ガタン、ガタン」という音は、線路の継ぎ目を通るときに生じる音であるから、走行音も当時のものと相当変わっているだろう。
上記の線路の他にもう一本、その上を列車が走ることなど無さそうな引き込み線が、家の一番近くにひかれていた。
私は近所の子供たちと、毎日その引き込み線の上で戯れていた。
一本の線路の上を、どこまで落ちずに歩けるか、とか
枕木を使ってケンケンパをしたり、とか
その引き込み線の先にある、犬がお座りしたような格好の車止めによじ登って遊んだり、とか…
走り抜ける列車に大きく手を振ってみたら、乗客が手を振りかえしてくれた時には嬉しかった。
私が小学校低学年のころに、和歌山線は全線電化となった。
今まで見たことも無いような車両が、「試運転」というサボを表示して走っているのを見たときは、私はあまりにも興奮して、狂喜乱舞したものだった。
親に何度も、大阪の交通科学博物館に連れて行った貰った事も、はっきり記憶している。
ボンネット型の特急「くろしお」の車体にしがみ付いて見ていた記憶もある。
第1旅第8章にも書いたが、私は小学校低学年の頃、家族で九州旅行に行ったことがある。
行きはブルートレイン、帰りは飛行機での移動だった。
ブルートレインでの移動はわりとよく覚えているのだが、飛行機での移動は殆ど記憶にない。
普通の子供であれば逆だろうに…
しかし、小学校中学年くらいからはガンプラに没頭してしまい、以降小学校高学年の時からファミコン、高校大学は音楽、社会人になってからは専ら車と、私の興味は鉄道からかけ離れていってしまった。
離婚が無ければ、再び鉄道に興味を持つことなど、一生無かっただろう。
最近ふとついでに思い出したことだが、小さな頃は、私は新幹線の整備士さんになりたかった。
運転手や車掌ではなく、整備士に着目していたとは何とも変わった子供であった。
私は、離婚によって大切なものをたくさん失った。
しかし、新たにかけがえのないものを幾つか手に入れたのも事実である。
今後の旅の物語で、それをゆっくり語っていきたい。