
その際、織部に送った形見の茶杓で、名は「泪」

古田織部の年譜です。

秀吉の死後、不安定な豊臣政権下で人望が集まりつつあった徳川家康は、常陸の佐竹義宣を徳川方につけるため、隠居の身であった織部を使い成功する。
慶長五年(一六〇○)関ヶ原合戦では徳川軍に入り、戦後七千石の加増を受け一万石となり大名に列せしめられた。
その家康は茶道界の最高位にあっって諸大名より信望を一身に集めている織部を将軍家の茶道指南・茶匠にすえている。
しかし、慶長一九年(一六一四)八月二八日、豊臣秀頼が亡父、秀吉追善供養の為、方広寺大仏殿の再建に着手した際、巨鐘の鐘銘等に疑義有りとした家康に、弁明のため赴き家康によって蟄居を命ぜられ謹 身中の禅僧清韓禅師を茶に招いてもてなしたことが、この後家康の怒りをかい、それはまた喫茶に身分の上下なしの思想を打ち出した 織部の茶道も含め、当時の政治情勢下では容認されない「自由」であり死に値するものであった。
慶長二〇年(一六一五)京都放火 画策の罪で逮捕された家臣、木村宗喜の責任をとらせる形で織部及び嗣子の山城守重広(重嗣)に切腹を命じ、残る男子も追腹を切っ て死に、織部の子孫は絶えることとなる。

幕府は織部の処罰を大阪内通、叛逆罪を表向きとして行ったが織部は一言の弁明もせず切腹したという。
家康にとって支配者への不忠行動、封建社会の秩 序を乱す恐れのある者はたとえ徳川将軍家の茶道指南役でも許さな いことを諸大名に示さなければならなかったのである。
家康さん、酷すぎるよー

古田織部が亡くなり茶の 湯が小堀遠州に受け継がれ ると、次第に織部焼がつく られなくなりましたが、江 戸時代後期、瀬戸及び名古 屋の文化人達により再興されるようになりました。
織部焼が色々売っていたので、このお皿を購入してきました
