介護に教科書はない | みっちゃんのブログ

みっちゃんのブログ

みっちゃんって誰?
なんか知らんけど楽しそうやで







この本を読んで
笑った
プププと吹き出した
あーーーほんと
こんなふうに心の声を出したら
楽だろうなー


著者は今もまだ奮闘中



思い出した11年前に始まった
義父母の介護を



口で言ってしまえばただの愚痴
文章で書き残すことで自分の気持ちに整理がつく

あまり書き残すことなく過ぎ去った私の義父母の介護

義父母の家の帰りに
友に愚痴った愚痴った
今思うと申し訳ないくらい
話を聞いてもらっていた


アメンバー記事に
何度か書いた
今も読み返したら涙出るわ

クソジジイ!と書いたこともあったっけ(笑)
アメンバー記事だから読んだ人は少ないけど



義母の認知症で
生活がどんどん変わっていく

義母はできない事が増えてきて
どれほど悔しかっただろう

一度だけ義父に
「家に通ってきてくれへんか?」
と言われたことがある

あれはたぶんだけど…
義母が義父に言わせたのではないかと思っている

その頃自分の家族の
不安定な時期でもあり
申し訳ないけど
笑いながら「丁重にお断りします」とすぐさま断ってしまった

それでもあの頃できる限り
頻繁に通っていたんだけどなぁ~

もし私が連日通ったら
私の家族の生活はどうなるのか…
そんなことは考えに及ばなかったぐらい義父母は切羽詰まっていたのだろうと思う
みっちゃんは仕事もしてないし
来てくれるやろうと思っていたのかな

この頃も夫はほとんどノータッチ
相談することも腹が立つくらい
ノータッチ(^_^;)

アメンバー記事読み返したら
また腹立ってきた(笑)


この本の著者も
夫に自分の親の介護に参加して貰うことにかなりの時間をかけていた


あの頃の介護する。とは
基本的に家事をすること
(できなくなった家事を誰かが代行する)

食事を作る
掃除する
洗濯する

私が日々通っていたら
少しは変わっていたのか

通っていたとしても……
何日続けられたか…

たぶん…倒れてただろうな…
それでなくても体調悪しだったし


夫婦二人の介護は
ほんとに悩ましかった

義母が若い頃我慢して嫌だったことなど歳を重ねると我慢できなくなる

ましてや
認知症が少し始まっている状態であるならもう夫婦だから一緒。ではなく
二人を離さなければ無理な状態だった

最終的には義父が肺炎になり
病院へ、その後施設に入った

最終的には同じ施設に入れることになったけど
これまたややこしいことが頻繁に起こっていた

夫婦とは不思議。と何度も思った


私が家にしばらく行かない日が続くと
(実はがんの手術で入院中)
義母はヘルパーさんに
みっちゃん死んだん?と
聞いたそうで
その時は笑って泣いた

そやで、みっちゃん死ぬかもしれんで!と思って笑った

入院中でもケアマネジャーからの連絡は来ていて

私しかあかんのん?
誰かしてくれへんのん?
とずっと感じていた

介護に関わらない親族を
恨んだときもあった

介護の色々を決める時
訪問看護師さんから
「キーパーソンはどなたでしょうか?
」と聞かれたあの日から

私……でしょうか…と
名前を書いたあの日から始まった

あの時夫の名前を書いていたら少しは違ったのだろうか


介護に教科書はない
問題集と過去問はある…かな?
でも答えは
一人一人の体験の積み重ねしかない

誰かが成功したとしても
それは当てはまらないこともある


介護保険
という制度

これを使うも使わないも自由

ただ使い始めたら
後戻りできない気がする

どんどんサービスという渦の中に
巻き込まれてゆく

使って良いことは
もちろんたくさんある

先日、介護関係に精通している友人に施設のことで相談したら

友人は言った

自分は
どんなに部屋が汚くても食べてなくても一人でひっそりと暮らしたい。と

え〜〜!それ娘さん困るやつやん!と笑ったけど

わたしたちが介護される時
どんな世の中になってるのかな




さて、
我が母の介護

ありがたいのは
人と話すのがとても好き!な母

なのでデイサービスも髪を整えて行くようになったし
ちゃんと準備も自分なりにできるようになった

実は昨年末の骨折以前に
私達が知らないうちに
自分で介護保険申請をしていたようで
その時は介護認定はつかなかったが
介護のサービスを使いたいと思っていたようなので
無理なくデイサービスに行けている
まぁ救急車を呼ぶのは
辞めて欲しいけど……

一人一人違う介護

義父母の介護のときより
自分が11歳も歳を重ねたので
できることも減っている

気がついたら自分も
高齢者になっているね
きっと