
「かつぎや」
ある年の元日、恒例の井戸の若水くみを下男に命じた。主人は「あらたまの 年立ち返る 朝(あした)より 若やぎ水を くみ初(そ)めにけり」と歌を詠み、「これはわざっとお年玉」と唱えてダイダイを井戸へ落とすのだ、と、しきたりを権助に教えるが、行くとそれらを忘れてしまい、でたらめに「目の玉の でんぐりかえる 朝より 末期(まつご)の水を くみ初めにけり。これはわざっとお人魂」と言った、と主人に報告した。あまりに縁起の悪い言葉ばかりなので、主人は驚きあきれる。
主人一家および奉公人一同が座敷に集まり、祝いの雑煮を囲んでいると、下男の雑煮の餅の中から小銭が出てきた。「餅の中からカネ(=金属)が出ました。これは金持ち(かね・もち)になるという吉兆だな」と主人が言うと、下男は「カネの中から餅が出たなら金持ちだが、餅の中からカネが出たなら逆で、身上(しんしょう=財産)を『持ちかねる』だ」と言って、主人から叱られる。(Wikipedia参考)
寿限無、寿限無
五劫の擦り切れ
海砂利水魚の
水行末 雲来末 風来末
食う寝る処に住む処
藪ら柑子の藪柑子
パイポ パイポ パイポのシューリンガン
シューリンガンのグーリンダイ
グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの
長久命の長助
生まれた子供がいつまでも元気で長生きできるようにと考えて、縁起のいい言葉を幾つか紹介され、どれにするか迷った末に全部付けてしまった。(Wikipedia参考)
長屋に住む職人、珍しく隠居宅の床の間の掛軸に目をやった。『雪折笹』の図に「しなわるるだけはこたえよ 雪の笹」という字句が添えてある。これには、雪の重みにしなって耐えている笹竹も雪が融ければ元の通りに立ち直るように、人間も苦難に遭遇したときこそ辛抱が大切であるという教訓がこめられている。隠居いわく「これは画に添えた賛(サン)というもの。結構な賛でございますくらいのことを言ってみな。ふだんお前を軽んじている連中も見直すこと請け合いだ」。お調子者の職人は「よし、やってみよう」というので家主のところへ行く。
大家の家の床の間にある掛け物には絵がなく、そこには「近江(きんこう)の鷺は見がたし、遠樹(えんじゅ)の鴉見やすし」の字が書かれてある。雪の中、近くにあってもシラサギの姿は見つけにくいものだが、遠くにいるカラスは小さくともすぐに目につく。それと同じで、善行はなかなか認められないものだが、悪事はとても目立つものだ、だから悪事はできないという意味である。職人「結構なサンでございますな」、家主「いや、これは根岸の蓮斉先生の詩(シ)だ」ということで失敗。「今度は『シ』と言おう」というので医者のところへ行く
医者の掛軸には大きな絵が描いてあって、「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、花は紅の色いろ香。池の面に月は夜な夜な通へども水も濁さず影も止めず」の字句が付されている。職人「結構なシでございますな」、医者「いや、これは一休禅師の悟(ゴ)だ」ということで、またも失敗。「待てよ。サン、シ、ゴと来て失敗つづき。よし今度は先回りしてやれ」と職人は友人宅へ行く。
友人宅には、腹の大きな坊さんや頭の長い爺さんなど大勢の人物を描いた絵画があって、「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」というめでたい回文の歌が添えられている。感心しながらも職人「結構なロクですなぁ!」、友人「いいや、七福神の宝船だ」。
これを今回はオチとしておりましたが、実際には八(ハチ)と九(く)があり
どうもうまくいかない。もう一軒。「古池や 蛙とびこむ 水の音」。職人「結構なハチで」、相手「芭蕉の句だ」。(Wikipedia参考)
となっているようです。
とある、トイレの文化がない田舎の村では、糞便は海のそばにある紐のついた板の上でやり、用が終わると紐を引き海に流すという様式がとられ、この糞便をすることを「カンジョウをする」といい、糞便をするための板のことを「カンジョウ板」と呼んでいた。
そんな村の若い二人が江戸の方へ旅をしに来て、糞便がしたくなったから大騒ぎ。宿の主人に「カンジョウがしたい」と言うと、当然店のほうは「お勘定をしたい」と勘違いする。宿屋の主人は「彼らは『江戸という堅苦しい街は毎日お勘定を取り立てるものだ』と勘違いされているのだろう。だから、『お勘定はお立ちになる、10日後にまとめて頂戴しますのでご心配なく。』と伝える。
二人は10日もトイレを我慢しろと言われているようなものなので、やや怒り気味に「カンジョウ板」を持ってくるように言う。そうすると、店の方も「カンジョウ板」という言葉に聞き覚えがないため、困惑するが、勘定をするための板として考えられるのは算盤ぐらいなため、一番上等な巨大な算盤と勘定が書かれた明細書を持ってくる。
そういうわけで算盤を持ってこられた田舎者二人はカンジョウ板にしては小さいとブツブツ言いながらも算盤の上に用を足し、明細書でお尻をふくのだが、用を足したのが算盤であったため、珠が車輪のようになり転がりだし、それを見ていたふたりは「江戸のカンジョウ板はすげぇなぁ。誰かが紐を引かなくても自分でどっかに行っちまったよ…」ともらすのであった。
(Wikipediaより)
男が隠居を尋ねると、「わしゃ新聞読んでたんや」「お前は新聞を読まんさかい、世間のことが何にも分からん。新聞読みや(=読めよ)」と男を諭すが、男は「そんなもン、わたい(=私)新聞読まいでも世ン中のこと知ってるわ」と意地を張るので、隠居は堀江の「阿弥陀池さん」こと和光寺で起こった強盗騒動を知っているか、と男に尋ねる。
隠居は、次のような事件を語って聞かせる。ある晩、和光寺に押し入った賊が、ある尼僧に「金を出せ」とピストルを突きつけるが、尼僧は落ち着き払って胸をはだけ、「過ぎし日露の戦いに、私の夫・山本大尉は乳の下、心臓を一発のもと撃ち抜かれて名誉の戦死を遂げられた。同じ死ぬなら夫と同(おんな)じ所を撃たれて死にたい。さぁ、誤たずここを撃て」と賊に言い放った。賊は尼僧に向かって平伏し、「私はかつて山本大尉の部下で、山本大尉は命の恩人とも言うべき人。その恩人の奥さんのところへピストルを持って忍び込むとは無礼の段、平に御免」と言うなり、ピストルをこめかみに当てて自殺しようとしたが、尼僧はそれを押しとどめて賊を諭した。「おまえは根っからの悪人ではない。誰かが行けとそそのかしたのであろう。誰が行けと言うた?」
「ちゅうたらこの盗人、『へぇ、阿弥陀が行け(=池)と言いました』っちゅう・・・ははは、ちょっとよう出来た話やろ?」」
「にわか(=冗談)ですかいな。もし、あんじょう(=正確に)言うてえな」「せやから、お前が新聞読まんさかい、こないして騙されるねん。新聞読んでたら『あんた嘘言うたらあかん。そんなこと新聞に載ってまへんがな』と言えるやろ」
それでも新聞を読もうと考えない男に対し、隠居は続けて「東の辻の米屋に盗人が入ったん知ってるか」と男に語って聞かせる。「今度はピストルやない、長い抜き身(=刀)をぶら下げて『金を出せ』とこう来た。ところがオッサン、ちょっと腕に覚えがあるさかい、びっくりせんわい。「覚え、ちゅうと?」「若い時に柔道の修業をして、柔(やわら)の心得があり、手向かいをした、これがいかんがな。『生兵法は大怪我の元』や。切り込んできたところをパッと体(たい)をかわした。よろめいたところを肩にかついで、土間にドーンと叩きつけた。相手が刀を取り落し、仰向けになったところを、四つばい(=四つんばい)になって、馬乗りで押さえつけた。ところが盗人も抜かりがないわい、懐に手ェ突っ込むと、かねて用意の短刀(あいくち)を取り出して、下からオヤジの心臓をブスーッと突いた。『アーッ』と言うたンがこの世の別れや……死んでもたがな。この盗人、米屋のオッサンの首をかき落とすと、ぬかの桶へ放(ほ)り込んで、逃げていまだに捕まらん。こんな話、お前聞いたか?」
「いや、聞かん」「聞かんはずや、『ぬかに首』やがな(「聞かん→利かん」=「ぬかに釘」という駄洒落)」
再び冗談でからかわれた男は隠居宅を飛び出したが、気が収まらない。誰かを「ぬかに首」でかついでやろう、と友人の家を尋ねるが、言葉をよく知らないため「腕が利いた」を「腕が切れて手がボロボロ」、「柔道で柔の修業」を「十三(じゅうそう)で柔らかい焼き餅の修業」と言うなど、しどろもどろになって一向にうまくいかない。
「盗人がパッと切り込んで来たとこをオッサンが……そう、西宮かわしよったんや」「あんなもンかわせるかィ」「ほれ、西宮に有名なもンがあるやろがな」「えべっさんか?」「えべっさんの手ェに持ったある……」「釣り竿や」「釣り竿の先の方」「テグスか?」「テグスのまだ先や」「浮き?」「まだ先や」「重り?」「もうちょっと先」「針か?」「針に付いてるもンや」「餌か?」「どつく(=殴る)で、ホンマに。餌に食らいついとる、赤い大きい魚が」「そら、鯛やろ」「……体(タイ)をかわしよったんや。ほんで、盗人を土間へダーンと叩き付けて、仰向けにひっくり返ったとこ、オッサン、盗人のとこへ夜這いに行たんや……ところが盗人、懐へ手ェ突っ込むと、かねて用意のガマ口で……下から、おやっさんのシンネコついたんや。いや、そやあらへん。シントラでもなし、シンサルでもなし……ああ、お前、鼻の長いの知ってるか」「鼻の長いのなら天狗さんじゃろ」「シンテング。こらちゃうわ。それ、あの動物園におる」「あんじょう物言え。そら象やろが」「ああ。そうそう。心臓。ああ、シンゾ(=しんど)。この話、聞いたか?」
ここで友人が「いや聞かん」と返せば、「聞かんはずじゃ、ぬかに首」と駄洒落を言うことができたが、「今、お前から聞いた」と言うので、男は言うことがなくなり、「ほなさいなら」と友人宅を逃げるように去る。
気が晴れない男は、今度は隣町の友人宅を尋ねる。「東の辻の米屋へ、ゆうべ盗人が入ったんや」「うちの東の辻に、米屋なんかあらへんがな」「違う、西の辻や」「西の辻にもない」「北の辻」「北の辻にもないで」「……この辺に米屋ないやろか?」「お前米屋探して歩いてんのか? そやったら、うちの真ァ裏に『米正』があるがな」「その米正にゆうべ盗人が入ったんや……パッと切り込んで来るところを体をかわして……」「米屋のオヤッさんなら3年前から中風(ちゅうぶ)で寝てるがな」「息子はおらんのか」「居てるがな」「息子は腕に覚えがある……」「息子、まだ4つや」「そこの家には若い衆はおらんのか」「それやったら、ヨシやんいう威勢のええのがいてるがな」喜んだ男は、順調に米屋の冗談を語る。「……ヨシやん死んでもたがな。むごたらしい、首をかき落として、ぬかの桶へ放り込んで逃げていまだに捕まらん。こんな話、お前聞いたか?」
すると隣町の友人は泣きながら男を見据え、「よう知らしてくれた!」と男をねぎらった。隣町の友人にとってヨシやんは妻の弟であり、「田舎へ電報を打て」「葬式の準備せえ」と急いで妻に命じる。「ちゃう! ちゃう! 嘘や! 嘘やがな!」「こら、世の中にはついてええ嘘と悪い嘘とあるぞ。洒落や冗談で人が死んだとか殺されたとか言うもんやない。おのれの知恵やあるまい(=お前の発案ではないだろう)。誰が行け、ちゅうたんや」
「ええ……阿弥陀が行けと言いました」
文字制限にかかりそうですので、この方たちとこの会の説明は分けて書きたいと思います。