時刻は14:46、小さく揺れ始めたその地震は、思った以上に長く続き、『もうそろそろ収まってもいい頃じゃないか…?』というぐらいの時間が経過しても一向に止まなかった。
時間と共に揺れも大きくなっていった為、社内のシステム担当者としては、長く続く地震の影響でシステムが止まったりしていないか確認しなくてはという事になり、上司と2人で自席のある4Fからサーバ室(システムの心臓部ともいうべき部屋)のある2Fへと移動を始めた。階段を駆け下り、2Fに着きサーバ室へと続く廊下を足早に向かう途中、下からドンッと突き上げるような衝撃が身体中に伝わった。おそらく揺れのピークだったと思う。かつて経験のない程の大きな振動に、僕は仕事などしている場合ではないと即座に判断し、思わず上司に「外に逃げた方がいいですよ!」と強く言った。
しかし冷静な上司はまずはサーバ室へと、建物内に残る事を選択した。今思えばすぐに外へ飛び出すという行為は、割れたガラスや外れた看板などの落下物による大怪我も潜んでいるのでとても危険だった。職場の建物が耐震構造で建設されている事を承知の上での上司の判断に、改めて感謝します。
サーバ室での確認作業を終え、すぐに妻に電話をした。…が、まったく電話が繋がらず、妻と五ヶ月になるお腹の中の子どもの事が気掛かりで仕方なかった。地震発生から3時間後ぐらいの夕方頃だったろうか、ようやく連絡がつき無事を確認出来た時は、心から安堵の思いに溢れた事を覚えている。
それから夜中の2時に会社の一室で眠るまで何をしていたのか全て明確には覚えてないのだけど、夜ご飯におむすびを頂けた事、24時過ぎ頃のシステム作業中に会社のトップが現れて「本当にお疲れ様」とビールをくれた事。今でも忘れられない味です。
翌朝は電車も動き出していたので、妻の会社で合流し、10時過ぎ頃には妻の会社を後にした。
帰宅途中では電車内のあまりの混雑具合に、身重の妻をかばいながら途中下車して経路を変えたり、最終的には自宅最寄りの2駅前までしか動かなかった為、そこから歩いて帰ろうと決めたり、そこに母の知り合いが車で迎えに来てくれて自宅まで送り届けてくれたり、本当に色んな方々に助けられ支えられた一日でした。
ある人に教わった。
『僕らは生かされている。ならば、死ぬまでとことん生き抜くしかない』と。
3年前のあの日から学んだ防災意識について。そして、与えられているたった一つの尊い命に感謝して、これからの日々を過ごしていきたいと思います。
震災で犠牲になった多くの方々、ご遺族の方々に、心より哀悼の意を表します。