受容に疲れきった時にひとはなにを選択するのだろう。私の場合それは語ることだった。
昨日友人に誘われて都内の個展を見に行った。
「超・いま・ここ」と題されたこの展示会では白い部屋一室にメディア・アートの作品が並ぶ。
その中でも私と友人がとりわけ気に入ったのが「思い過ごすものたち」というiPad、iPhoneをいくつかの日用品とコンポジションした作品である。
例えば、扇風機の風がiPadに向かって吹いている。画面には箱ティッシュが風でたなびくアニメーションが流れている。
この時、風とティッシュペーパーの角度は同期しているように見えるが全く無関係なのである。
同じシリーズにiPadのメモ帳画面にVolvicのペットボトルから流れてくる水によって文字が入力されていくという作品がある。
ペットボトルもiPadも固定されているため、水が流れる範囲というのは極めて限られており、文字列に表れるアルファベットは数種類に限定されるといっていい。ところが登録されている予測変換機能によって無作為に「Volvic」という文字が入力される。無秩序な文字列に時々表れるこの単語はよりいっそう際立つ。
彼の作品に共通しているのは「刷り込み」である。インタビューでは「おまじない」という言葉で彼は説明したという。一見偶発的と思われるような現象を、必然的につくりだすというもの。すべてが虚構でありすべてが真実でもある。彼の「おまじない」に私達は我を忘れて夢中になるのである。
そうやって、実存するものと私達が想像力によって独り合点し錯覚していることとの境界線を曖昧にしていくのだ。
もう1つ作品をあげるとすれば、時計である。
壁に、学校に掛かっているような丸時計がある。横にはスクリーンがあり、全く同じ時刻を常に指している。
始め時計をカメラが直接映しているのかと思いカメラを探したが見当たらない。
説明書きを読んで吃驚したのは、スクリーンの映像はビデオカメラで12時間連続で撮影されたものだったということだ。
この作品のタイトルは「夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる」である。
私達が生きている今日は今日でしかありえない。しかし、今日を今日たらしめるために西暦、年号、月、週、日、時間、秒…60の、24の、7の、30の、365の、100の単位に間違いなく私達は束縛されている。時間は目に見ることができず手に取ることも触ることもできないのにもかかわらず。
そしてそれをせめて可視化しようとしたのがカレンダーであったり時計であったりするわけである。
先述した通り、スクリーンに映し出されている時計は「今日」よりもずっと前に撮影された映像である。
ところが、すぐ横にある時計と常に同じ時刻を指し続けるため、その時計は「今日のもの」として存在することを私達は受容できてしまうのである。その映像に関していってしまえば明日も「今日」になるし1週間後も1年後も変わらず「今日」であり続けるわけである。
美術に限らず、音楽であったり、芸術と呼ばれるものには必ずそういった時間、次元の制約が生まれてくる。ところが制約があるにもかかわらずしばしば芸術はそれをいとも簡単に飛び越してしまうような「錯覚」を与える。
芸術には様式が生じる。「形外れ」と「形無し」に天と地ほどの違いがあるのは、そういった前提に自ら身を投じる覚悟があるのか、はたまた背を向けるのか、意図せずして自分のものと「錯覚」してしまっているのか…いずれにせよそこにはいくばくもの「虚構」が漂っている。
「虚構」が美しいのはそこに残虐なまでの純真さがあるからである。本当は砂でできているお城に住んでいて自分は一国の王様女王様と自分に「おまじない」をかけながらも、ある日目が覚めたら大量の砂と素っ裸な自分しか残らないかもしれないという恐怖を本能的に予期して押しつぶされそうになったり、はたまた誇大化させて得意になってみたりする、そんな危うさが虚構をよりいっそう愛おしく感じさせるのである。