- 家守綺譚 (新潮文庫)/梨木 香歩
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梨木香歩の「家守綺譚」を読んだ時
文中に出てきた言葉がとても気に入った。
どれくらいの不思議まで人は
「まぁいいだろう」といって許せるものなのか・・・
人目に晒すだけがいつの場合にも最良とは決して限らない。
その一番大事な純粋の部分が危うくなるだけではないのか・・・
人によって感想は色々なんだろうけど、
不思議なことを受け入れられるか否かは
その人の心の持ち様なのではないかと思った。
どこからが不思議で、どこまでが不思議じゃないのか・・・
その線引きは誰がしているのか・・・
「幽霊」ひとつとってみても
見える人もいれば見えない人もいる。
いてもおかしくないと思える人もいれば、
完全に否定する人もいる。
でも、見えてしまったものはしょうがないのに、
世間では「不思議」の枠に入れられる。
ひどいときは変人扱いだったりする。
不思議な話を好む人も多いけど、
それはあくまでも「お話」の中だけであって
現実的な話としては受け入れられない・・・
だから「どれくらいの不思議まで人は許せるのだろう」
ってセリフが妙に心に残ったわけで、
人目に晒すことが最良とは限らないって言葉に
納得してしまったのであります。
不思議繋がりで・・・
小さい頃に両親や職場の同僚達とキノコ狩りに山に行った。
始めのうちは親の側にくっついていたものの、慣れてくると
目に入る色鮮やかな毒キノコが気になって、
毒キノコ採集に夢中になる。
そのうち、自分が親とはぐれたことに気づく。
遠くの方で声は聞こえるけど、下手に動くのは
マズイということだけは子供心にわかっていたし、
はぐれたことで親に怒られるのも怖かった。
だけどその時は何故か心細くはなかった。
天気のいい日で、上を見上げたら広葉樹の葉の間から
青空が見えていた。
心地よい風にざわざわと木々の葉が音を立てる。
そんな時、誰かが進む方向を教えてくれた。
言葉ではなくて、そう感じたのである。
目線を移動させると、木々の間を縫うように
自分が進むべき道が見えた。
自分が歩いてきた道とはあきらかに
方向が違ったのに、何の迷いもなかった。
道なき道を進んで行くと、
車を停めていた場所に辿り着いた。
誰に言ったのかはわからないけど
「ありがとう」とお礼を言った。
車の前に来ると、知らない大人達が車の中を物色していた。
mokkoの姿を見て、そそくさと逃げていったけど、
水を入れておいた一升瓶を持っていかれたのはわかった。
ほどなくして、両親が私を探す声がこだましながら響いてきた。
車にいると大声で叫んだ。
キノコをたくさん籠に入れてみんなが車に戻ってきた時
持っていかれた一升瓶のことを話したら、お酒だと思って
盗んでいったんだろうと笑っていた。
親達は私が毒キノコ採集に夢中になって
迷ったとは思っていない。
入口のところで引き返したと思っているらしい。
だから私の経験したことは教えていない。
今にして思えば、それこそが
「一番大事な純粋の部分」だと思うから。
きっとあの時のmokkoもそう思っていたに違いない。
ただ、親には昔から不思議な子だったと言われているが
何をもって不思議だと思ったのかは教えてもらっていない。
ただ親はそいういうmokkoを否定しなかった。
そんな親だったから、私も不思議な事を
変だとは思わないのかもしれない。
不思議バンザイなのである♪