齋藤家には2つのお墓があります。
ま、それは別に不思議な話でもなんでもありませんが、下の写真のように2つあります。
向かって右が先祖代々の墓。
と言っても私の継祖母が祖父の死後新調したもので、35年前のものです。
で、向かって左が日露戦争の戦死者に時の政府が立ててくれたものだそうです。
私の祖母は昭和18年の没し、養子だった祖父はすぐに出征が決まっていたので、現継祖母と再婚。
その祖父は私が中一の時に他界。
この左の墓については継祖母からは「親戚の墓」としか聞かされていませんでした。
ところが、この墓の墓碑銘が「齋藤傳兵衛」という齋藤家嫡子の名前だということに気が付いたのはずいぶんたってからでした。
もう調べようにも聴ける相手はおりませんでしたが、ちょこちょこ調べているうちに少しだけわかったことがあります。
齋藤家は私の母まで4代続いて養子をとっていたそうです。
そして、左の墓の主、齋藤傳兵衛は第36連隊(金沢師団鯖江連隊)に所属し、旅順方面に出撃し、明治37年9月20日龍眼北方各面堡で死亡したこと。
(36連隊は日露戦争奉天会戦後に約5600名のうち健在者が250名ほどか残っておらず、旅順要塞攻撃時に壊滅状態だった)
どうやら、この齋藤傳兵衛は私の曾々祖母の弟か兄にあたる人で、齋藤家の嫡子でしたが、どういうわけか嫡子がまぬがれるはずの戦争で戦死しております。
おそらくはその後、曾々祖母が養子をとり、その娘こと曾祖母が養子をとり、祖母が生まれ、その祖母に私の祖父が養子に入ったのではないかと思います。
私の母を入れるとこれで4代連続養子をとったことと合致します。
ただ、なぜこの齋藤傳兵衛は従軍したのかは謎のままです。
若しかしたら予備役だったのかもしれません。
ちなみに先祖代々の墓に入っている一番古い人は明治14年に74歳で没した齋藤傳兵衛。
おそらくは左の墓の齋藤傳兵衛の祖父にあたる人ではないかと思っております。
齋藤家は江戸時代の後期に、福井市殿下地区にどこからか流れてきた一族という言い伝えがあります。
先祖は何をしていて、どこから来た人たちなのか、今はもうわかりません。
もしかすると、この墓に入っている初代が文化4年の生まれということを考えれば、この初代齋藤傳兵衛が流れてきたときの当主なのでしょうか。
ま、それは別に不思議な話でもなんでもありませんが、下の写真のように2つあります。
向かって右が先祖代々の墓。
と言っても私の継祖母が祖父の死後新調したもので、35年前のものです。
で、向かって左が日露戦争の戦死者に時の政府が立ててくれたものだそうです。
私の祖母は昭和18年の没し、養子だった祖父はすぐに出征が決まっていたので、現継祖母と再婚。
その祖父は私が中一の時に他界。
この左の墓については継祖母からは「親戚の墓」としか聞かされていませんでした。
ところが、この墓の墓碑銘が「齋藤傳兵衛」という齋藤家嫡子の名前だということに気が付いたのはずいぶんたってからでした。
もう調べようにも聴ける相手はおりませんでしたが、ちょこちょこ調べているうちに少しだけわかったことがあります。
齋藤家は私の母まで4代続いて養子をとっていたそうです。
そして、左の墓の主、齋藤傳兵衛は第36連隊(金沢師団鯖江連隊)に所属し、旅順方面に出撃し、明治37年9月20日龍眼北方各面堡で死亡したこと。
(36連隊は日露戦争奉天会戦後に約5600名のうち健在者が250名ほどか残っておらず、旅順要塞攻撃時に壊滅状態だった)
どうやら、この齋藤傳兵衛は私の曾々祖母の弟か兄にあたる人で、齋藤家の嫡子でしたが、どういうわけか嫡子がまぬがれるはずの戦争で戦死しております。
おそらくはその後、曾々祖母が養子をとり、その娘こと曾祖母が養子をとり、祖母が生まれ、その祖母に私の祖父が養子に入ったのではないかと思います。
私の母を入れるとこれで4代連続養子をとったことと合致します。
ただ、なぜこの齋藤傳兵衛は従軍したのかは謎のままです。
若しかしたら予備役だったのかもしれません。
ちなみに先祖代々の墓に入っている一番古い人は明治14年に74歳で没した齋藤傳兵衛。
おそらくは左の墓の齋藤傳兵衛の祖父にあたる人ではないかと思っております。
齋藤家は江戸時代の後期に、福井市殿下地区にどこからか流れてきた一族という言い伝えがあります。
先祖は何をしていて、どこから来た人たちなのか、今はもうわかりません。
もしかすると、この墓に入っている初代が文化4年の生まれということを考えれば、この初代齋藤傳兵衛が流れてきたときの当主なのでしょうか。