先週の土曜日、久しぶりに「しようよ」の公演を観に行きました。
理由は単純で、田中次郎くんと宗岡ルリさんと橋岡七海さんが出ているお芝居で、これを観ておかないとなんだか直観的に後悔しそうだったからでした。

実は私は人が陰惨に殺されるお芝居はあまり好きではありませんでした。
そういう意味で、しようよの「茶摘み」を観た際、あまり共感を抱くことができませんで、しばらく「しようよ」は観ないでいいかななんて思っていたんです。

さて、今回はどうだったかというと、やはりその部分は共感できませんでしたが、それ以外にたくさん共感できる部分があり、おもしろく観ることができました。

この話はたくさんの「何かが足りない」人が出てきます。
その足りなさは、失った足りなさだったり、与えられていない足りなさだったり・・・
そういう人たちと、何とかしようとする人たちの心と体が幾重にも交錯し物語が作られていました。

サヨナラできなかった犬を探す高校生 と 高校生を探す先生
ゴミ屋敷に住む死んだ妻と子供を忘れられない男 と 男を社会に引き戻そうとする弁当屋
母が引き起こした情事が絡む事件の影響で男性を愛さないと心に決めた女 と
その女を居候させてモデルの仕事を与えるデッサンスクールの女先生
公園で弾き語りをするタカシくん と タカシくんの歌に共感する大学生・・・・・

そのそれぞれの「足りなさ」は、もしかしたら観る人がそれぞれ皆なんらか持ち合わせている「足りなさ」なのかもしれません。だから、そこに共感が生まれるのかもしれません。
そして、「足りないもの」がある人がそこに何らかの狂気をはらむのかもしれません。
「足りない」人に手を差し伸べようとする人も、実はその足りなさが自分にも重なるものがあるから手を差し伸べようとしているのかもしれません。

そして、かく言う私もその「足りなさ」に共感したのでしょう。

さて、演技の部分ですが、役者の皆さんの動きtお役作りがとても秀逸で、これはすでに、11月にプレビュー公演を行い、その後北九州での公演をこなしているという「熟れ」が産んだ技かもしれませんが、一人一人の役と役者がしっかりなじんでとても伝わりやすくなっておりました。
そして、その役者の動きと音と照明がうまくシンクロしているように見えました。

ただ、やっぱり最後に主人公の女の子は陰惨に人を殺してしまいました。
それは彼女の「足りなさ」と「寂しさ」が産んだ狂気に仕業なのですが、そういう狂気って「人を殺す」方向に向くのかな?というのがこのお芝居の最後に残る疑問なのです。

そういう狂気って普通自分に向かうのではないだろうか、たとえば寝たきりで苦しんでいる妻を安楽死させる夫というようなのとは全く違うはず。
ここは前回の「茶摘み」同様、大きく疑問が残る部分です。

さて、でも全体的にはとても面白かったです。
「悪い芝居」の植田君がゲスト参加で出てきて、ほぼめちゃくちゃなアドリブで登場したのはさすがに爆笑させていただきました。
田中君も宗岡さんも橋岡さんもしっかりキャラが立っていてよかったです。

後、実は偶然音効席の隣に座ったのですが、中野さんが座っていまして・・というか当たり前なんですが・・期せずしてお話できてよかったです。

ということで、私の共感できる部分がどうなってゆくのかという点で大原さんの次回作も観てみたいなと思います。(何だかえらそうですいません。)

mokichi4516こと齋藤秀雄の再び京都へ戻ってきました。-元・立誠小学校の玄関