話は昭和32年にさかのぼります。
私の父、当時は齋藤姓ではありませんでしたが、某国立大の教育学部(当時は2年制の短期コースがあったそうです)を卒業し、教員採用試験を受験したものの、当時稀だった(と言います)不採用になり、傷心を抱えて東京のセルロイド工場で働いておりました。

父の話によれば、不採用はたったの二人でそのうち一人は5月の途中採用されたため、県でたったひとりの不採用者というかなり不名誉な状況だったそうです。
聞くところ、成績は劣悪でなかったことから、成績・素質以外の問題があったと息子ながら思います。

さて、そんなある日、東京での生活に辟易していた父のもとに、福井の山奥、岐阜県境にほど近い小学校の教員なら口があるがやらないかとの話が舞い込みました。
慣れない東京での、しかも単調な工場労働、働きながら来年夜間大学へ入りなおそうと考えていた矢先、不採用となった鬱屈も抱えつつ、任地に赴いたそうです。

大野市からバスで揺られること二時間半、大野郡和泉村下半原という集落にその小学校がありました。
日進小学校といいます。
バス亭に降り立った父は驚きました。
二十人の子供たちが「先生が来た。先生が来た。」と叫びながら駆け寄ってきたからです。

父の前任の先生は日進小学校に赴任したものの、夏休みに入ると「こんな山奥の学校は嫌だ」と辞めてしまい、9月に入ると校長が代わりに担任をしたものの、子供の面倒に手を焼いた校長は、「もうすぐ先生が来るからバス停まで迎えに行って来い」と子供たちを送り出し、以来、子供たちは毎日、一日三回来るバスの時間にみんなでバス停が見える橋の上で歌を歌いながら父を待っていたそうです。

いろいろと迷いながら汽車とバスを乗り継いで下半原にたどり着いた父は、この二十人の子供たちに出会って教育に身を捧げる決意をしたそうです。

まるで二十四の瞳のような話ですが、こういった話は当時離島や山間の学校ではよくあったのかもしれません。

その日進小学校は今はもうありません。
廃校になったのですが、ただ廃校になったのではなく、ダムの底に沈みました。
昭和43年のことだそうです。

それが九頭竜ダムなんです。
この話を、この場所を、私の娘たちにも見せたいと思い、連れてきました。

どれくらい、娘たちに伝わったかはわかりません。
少しでも何かを感じてくれればと思います。

写真は九頭竜ダムです。

mokichi4516こと齋藤秀雄の再び京都へ戻ってきました。-九頭竜ダム1


mokichi4516こと齋藤秀雄の再び京都へ戻ってきました。-九頭竜ダム2