1925パリにて。

第一次世界大戦の傷痍軍人を集めての宴。

 

後先無い老いの日々に、

時間潰しにネット散歩してる場合じゃないが、

他に選択肢あるんかい?やで!

 

はじめに  哲学の根本を問題とする如何なる問いかけも(小論の如きささやかな問いかけにおいて も)、今日、学問と人類との歴史的転換について言及しないわけにはいかない。かつては確 固たる哲学と学問との発展の歴史の自明性ゆえに、その言わずもがなの歴史自体には言及す る必要がなかった。しかしながら、哲学の歴史は終焉に至り、哲学もその方法も学問自体も、 そして知もが自明性を失っており、哲学は歴史の転換を自覚した上で、自らで自らの議論の 方法と根拠とを確保しなければならなくなったのである。  〈理性の適切な使用が知の前進を確実に積み重ねていく〉、おそらくこれが未だに学問シス テムを可能としている〈根拠〉であろう。近代以来受け継がれてきた学問システムは教育シ ステムの全体と重なり、産業社会システムへと接続し、一体化へ向かっている。しかしなが ら、その中心となる学問システムは実は中空化している。学問と教育、生産、セキュリティー のシステムの一体化は、もはや知の理念からのものではない。かつてこの空虚を埋めるだけ でなく、まさにこのシステムの根拠となり、前述の学問の根拠を確保していた哲学が、いま や追憶と懐古の営みへ化しつつあるからである。  政治的な公正さを確保する処世術が哲学と称して学問の中空の埋め草となり根拠を糊塗す るにまでに至った今日、その知によって規定されるべき人間の理解が破綻しつつあるのは当 然である。今、人間が問題なのである。生、存在あるいは死、無、そしてそれらへの根源的 な〈問い〉の条件であるべき「人間」が、かつてない無条件、無規定の混沌へと陥りつつあ る。  

 

ニーチェにおける「超人」への階梯について 〈問い〉の構造からの検証  内 藤 可 夫

 

    何か、負け戦への出兵の辞?

 

別話。

昨日はアノ宮崎駿が一抜けして高畑勲が

最終回まで。。した。

「赤毛のアン」

全50話を斜め観シタ。

なんやら、

エエコトしたらエエコトあるでよ

アニメでした。

時々おメメに水が。

 

「モーニングページ」なるものを

我をもと、思い A4ノートを

安かったので

6冊買った、

僕、馬鹿だった。

今朝、7行。

 

 

「問」と「答え」。

 

両者は同じ文化範疇内に属してなければ。。。。

また、

問の中には往々にして想定された

答え群がスタンバイ。

それでも

「問」を発しなければの

八百長世界。

 

白昼夢。

生の根本カナメを見つけ

手懐けたら

生きやすく

なるのかな?

問自体を破棄して、

 

明日の朝は

オートミール

紅茶

電話

抜きで

「モーニングノート」。