最近、「需要と供給」という言葉をよく使う。



僕の友達の1人にとても優しい人がいる。
周りの人全員、という訳ではなく心配になった人だけ助けていくといった感じ。
でも、その優しさが最近空回りにしている気がするのだ。そこで、「需要と供給」の話になる。
相手が求めてる以上、もしくは求めていないのに気にかけ過ぎている気がする。
飽くまで気がするだけ。



果たしてそれは優しさなのだろうか。
自己満足とか、正当化とか、贖罪とか、心配性とか、色んな理由は考えられるけど。
やらない善よりやる偽善?
優しい人って本当に褒め言葉なのかな。



よく「かっこいい」「優しい」なんて言われるけど皮肉にしか聞こえない。
それは単に僕が他人を信用してないだけか。
もちろん言われて嬉しいって人もいる。
その違いは何なのだろうか。
気になるな。



僕は自分がコミュ障だと分かってる。
これにも「需要と供給」が関わってるのだ、と最近思った。



少し前、学校で文化祭があった。
自分のクラスでそれぞれ店のような物を出すのだが、僕はそこで店番の担当になった。
なんとその時はコミュ障がでなかった。
もちろん普段はでる。



普段の会話では自分は相手と話したく、供給はできる状態なのだが、相手は自分と話したいと思っているのか分からない。
つまり需要があるか僕には分からない。
僕は自分に自信がない。
「相手は自分と話したがってるだろう!」と思うことができない。
だったら相手への害が最小限になるようできるだけ短い会話にしてその場を乗り切ろう、そう考えた結果、コミュ障(のようなもの?)が発症するようだ。
対して店番の時は供給はもちろんできる状態で、相手も僕らの店に来たくて来ていて、店で何かしようと思うと僕に話しかけるしかない、つまり需要もある。
だから僕は会話ができたのだろう。



人と話したり自分の意見はしたいけど需要があるかわからない、それが問題なのだ。


僕がツイッターをやっているのはフォロー制度やミュート機能があって、僕のツイートを見てる人は僕にツイートを見ようとしてくれてる人だ、とわかるから。



言い訳?
うるせぇw



僕は人を見極める能力がない。
だから少なくとも僕のことを大切にしてくれる人だけは大切にしたいと思う。


って でんぱ組.incのもがちゃんが言ってた。

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僕にとって癒しであり、戒めです。


ばいちゃ( ^ω^ )