今回は震災のことを書こうと思います。
スイーツデコの記事は、のちほど書きたいと思います。
熊本の地震、心配ですね。
友達が天草にいて、ラインしたら「木造家屋だから倒壊するかと思った」とのことでした。
5年前、栃木県の那須塩原市に住んでおりました。
(震災の1カ月後、主人の転勤で福島県の猪苗代町に引っ越したのですが。)
那須の震度は6弱。
その後余震の嵐。今の熊本と同じです。
テレビと携帯の緊急地震速報の音が、しょっちゅう鳴って、怯えていました。
私は娘(当時4さい)の幼稚園の役員の集まりのランチから帰ったばかりで、夕食にロールキャベツを作ろうとキャベツを茹でていました。
そこへ波のうねりのような長い揺れ。
茹でていたお湯がこぼれてガスは消え、
添え木を必死につかんでいたペットのオカメインコと顔を見合せながらテレビが倒れないように押さえていました。
その後幼稚園バスの乗降所へ、いつもは歩いて行きますが娘のヘルメットを積んで車で。
娘のバスが着いたのは17時でした。
途中の家のブロック屏はすべて崩れて、道に亀裂が入っているところもありました。
次から次へとくる余震のため、娘がトイレに行くときはついていき、また私がトイレに行くときも娘についてきてもらいました。リビングに一人でおいておけなかったのです。
主人は地震の時、新幹線に乗っていて、最寄りの大宮で止まりしばらく車内に閉じ込められていたそうです。
その後、近くの市民会館に案内され1夜を明かしました。
電車が動かなかったので、在来線を乗り継いで帰ってきたのは、3日後でした。
2011年の1月のニュースで、
阪神大震災で亡くなった4さいの娘が生きていたら成人式だった
というのを見て涙した数カ月後に、
津波で家族を亡くし、4さいの子が孤児になってしまったと…
もちろん多くの方が亡くなり、一人になってしまった人がいましたが。
同じ4さいの子を持つ母として、やりきれない思いでした。
震災後ガソリンが入って来なかったので、
ガソリンスタンドは閉めたままでしたし、
入ってきても1時間待ちで一人1000円分だか、2000円分までしか入れられませんでした。
心理的にやはりわたしもトイレットペーパーの買いだめをしましたね。
なんでしょうかね。
原発事故により漏れた放射能が風に乗り、その後の雨により地上に落ちてきたわけですが、比較的放射能汚染が強かった福島市や郡山市と同じライン上にある那須も、放射能が高かったのです。
引っ越してしまった人もけっこういました。
また那須は東京電力のため、計画停電が行われ、夜ろうそくの火でごはんを食べたり、洗濯機をまわす時間を停電時間を避けて考えないといけませんでした。
放射能対策でずっとマスクをしておりました。
那須は原発から100キロ。
そして震災から1カ月後に引っ越した猪苗代も原発から100キロでした。
でも風のラインが違ったので、放射能はそれほどでもありませんでしたが、
念のため私たちがマスクをしていたら、
転入した幼稚園の先生に「風邪ですか?」と聞かれ、ビックリしたのを覚えています。
その後聞いた話で、
その年のゴールデンウィークに福島ナンバーの車で那須のレジャー施設に行った友達が、車に
「福島に帰れ」と落書きされたとのことでした。
放射能を持ってくるなということなのでしょう。
そういうことを防ぐ意味も含めて、
そのレジャー施設では福島ナンバーの車だけ集めて別のところに停めさせたそうです。
その2年後、除染の進んだ福島市に越してきましたが、
他県に避難して、子供の転校が大変だったというような話を聞きました。
震災のとき、仙台のおばは断水と停電のため避難所にしばらくいたそうです。
また主人のいとこのご主人は神戸出身で、阪神大震災の時中学生だったそうですが、
着のみ着のまま逃げたそうです。
火災が広がってきたので、家に物を取りに行きたかったけれど、余震と倒壊のおそれで行けず、結局火がまわり家は焼けてしまったそうです。
やはり、今回の地震の映像を見ると、
なんとなくふたをしてきたものが、開いてしまうんですね。
再び悲しい気持ちにさいなまれている人が多いと思います。
ふたが開いてしまったので、吐き出してみました。
これでまたふたを閉めると思います。
5年経ち9さいになった娘は、やはり思い出して怖いらしく、今朝はニュースを見たくないと言って録画してあったお笑い番組を見てから学校に行きました。
日本列島、どこで大地震が起こるかわかりません。
あらためて、気を引き締めていきましょう。
ご覧下さった方ありがとうございました。