私たちはどうやら、欲しい欲しいって言いながら、
願った形じゃないと受け取れない性質があるのかもしれない。
巷に溢れる情報も、
その時の私たちのアンテナが合ってないと
全く目にも耳にも入ってこないのと同じで、
愛も才能も
もう本当は十分与えられているのに、
自分が願った形じゃないから
その存在が自分の欲しがっているものなのだと気づけない。
だから例えば
ママが子供たちのためにどんなに愛を込めて良いアドバイスをしたつもりでいたとしても、
その時の子供たちの願う愛の形が
ただ聞いて欲しい、つらい気持ちを分かって欲しい
なのだとしたら、
子供たちの心に、ママの愛は微塵も入っていかなかったりするんだ。
実際、我が家の長女は、
『あの頃、ママがどんなことを話していたかとか、全く覚えていないよ。
ただ、気持ちをわかってもらえなかった、否定されたという思いしか残ってなくってつらかった…。』
と、思春期時代の気持ちを教えてくれた。
その時、その時の娘の抱えている悩みに対して
心を込めて一生懸命、私の想いを伝えてきたつもりだったけれど、
当時の娘が欲しかったものは、それではなかったってことなのだろう。
そりゃあ、つらい時に、ママの想いを受け止める余裕なんてなかったよね。
娘の想いを、そのまんま、ただただ受け止めてあげられていたら
それだけで、娘はどれほど楽になれただろうって思うと
申し訳ない気持ちでいっぱいにもなるけれど、
当時の私にとっても、それが精一杯の愛情の形だったのだと思う。
多分それは、私が子供の頃に感じていた寂しさとも繋がることで、
当時の親の精一杯の愛情も、
私の願った形じゃなかったから受け取ることができなかっただけなんだろうな。
そしてそれは、
私たちが与えられている才能についても、同じことが言えるんじゃないだろうか。![]()

あの人のようにすごいことができたら…
あの人のように顔もスタイルも美しかったら…
って自分の外側の人ばかりに気持ちがいってしまっていて
あんな才能が欲しかったー
って言ってばかりいたら
あなたって〇〇や△△なところがすごいよねって誰かが言ってくれたとしても
そんなの、私よりできる人いくらでもたくさんいるから才能じゃない!
とか、
もっとみんなみたいにすごいものが欲しい!
って、受け取り拒否したり…
才能っていう神様からのギフトも、
自分の願った形じゃないからって受け取れないでいる人って
結構多いんじゃないかな。
そりゃあ、神様もがっかりしちゃうかもしれないね。
そもそも才能って、
本人にしてみたら当たり前にできちゃうことだったりするから、気づきにくいのかもしれないなぁって思う。
その笑顔や、
醸し出す雰囲気そのもの、
息をするように当たり前にしていることの全て…
その当たり前こそが、実はあなたの才能なのかもしれない。
しかも、才能のすごいところは、
大抵、今が一番下手な状態だってこと。
つまり、ここから先は伸び代しかない。
一番下手な状態で誰かからすごいって言われてるなら
それってきっとすごいことだよね。
どんどん受け取って、どんどん伸ばしていったらいいんだと思う。
まずは与えられているものに気づいて感謝する。
そして、与えられたものを大事にする。
そしたら、
自分の願うものと実際に与えられるものが
だんだん一致してきて、
その先に、まさに願った世界が、
どんどん広がっていくんじゃないだろうか?って思うのだ。
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