ご無沙汰しております。脚本がいつまでも書き上がりません。正直言って煮詰まっております。なんとかインスピレーションをと思って熱海に弾丸旅行をして、その旅日記をつづろうと久方ぶりにログインをして、一、二カ月ほどまえの岡山への都落ち記録を発掘。載せてなかったっけと思って軽く読み返して、当時の私が尻込みした訳も手に取るように分かってしまって、軽く苦笑いをしつつもどうせだしということであげてしまうことにしました。かなりの駄文なので読まなくていいです。

 熱海についてはまたいつか。好きぴのライブにも行ったので、それもまた近々!めちゃめちゃ良かったなぁ、、、。好きだよぉ。。。

 

 

 

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 祖父の法事に来ている。祖父母の家は瀬戸内海の小さな島にあるので、一度岡山に宿を取ってから、当日四国汽船で直接向かうことになった。泊まっているのはホテルグランヴィア岡山というところ。夏に帰省しに来るたびだいたい毎年泊まっていたが、コロナ下だったり受験期だったりでそもそも帰省しなかったり、しても弾丸で島の安い宿に直接泊まるなどしていたからなんだかんだご無沙汰な気がしている。今回は15階の部屋、夜景が綺麗。両親が明後日の朝ごはんをバイキングにするかどうかで熱心に討論している。なんとなく耳に入ってくる感じ、朝ごはんに一人五千円出すのが馬鹿らしいか否かが議論の中心になっているよう。食べたい。あたし食べれます、食べさせてください。

 

 

 行きの新幹線のなかでぼんやりと窓の外を眺めながら、法事のことを考えていた。東京バナナのブリュレタルトを食べながら、通りがかりの関ケ原に積もる雪が綺麗だと隣に座る父に囁きながら。

 実際、祖父を悼むという感情があまり判然としていない。寡黙な人だった。遠方に住んでいたし、祖母のほうがお喋りの好きな性質だったから祖父とはあまり会話をした記憶がない。これは不謹慎だということが分かっていながらも度々披露する持論なのだが、逢わぬ人は、それはもう死んでいるのと同じではないだろうか。もし仮にその人が突然亡くなったとして、きっと私が知るのは運が良くて数年後だ。少なくともその数年間は死んでいるものを生きているものとして生活していることになるのだから、生きているものを生きていると思えなくたって責められたものでは無いように思うのだ。幼少期の友達は今どこで何をしているかわからない。電話や文通をしていたなら話は別だけれど、たとえ二度と会わなくても生死は肝心であり、生きているのならば喩え逢えずともそれで良い、という感情を一般的な人々に対して抱くことが私はできない。非合理的だからというか、都合の良い「悲しみ」コンテンツとしてニュースを消費する現代人への嫌悪感と似たようなものを見て取っているのかもしれない。昔の友人にそれを言ったとき、彼女の目に「理解できない」という色が浮かんで、それに反して「なるほどねー、」という言葉が返ってきた。まあこういうのは他人に共有するものではないから良いのだけど、実際人から見たら「薄情ぶってるやつ」にみえるのかもなあと思ったりもした。たぶん当たりだから何も言えない。

 

 祖父のことは好きだ。それは嘘偽りない。でも哀しいと思えないのだ。思えない、というより、哀しみにカテゴライズするほどの条件を満たした感情が沸いてこない。酷いことを言っているのは分かるのに、分かるのだ、分かるけど。実感がわかないだけなのだろうか、それも違う気がする。たぶん今日中にはまとまりそうにないので今日のところはこれで寝ます。明日は朝早いぞ~

 

 

 

【四国汽船】

 9時半の便で島へと向かう。直島というところで、草間彌生や安藤忠雄を中心とした芸術家たちが沢山のアートを作りためているおかげで観光地として海外ではわりと高い人気を保っているらしい。儲かったお金で数年前から何倍もの大きさになった豪華客船の甲板に上る。お気に入りだった白鳥型のベンチにはブロンド髪の先客が居て、それでも譲る気はないので軽く頭を下げて隣に座る。何枚か岡山の写真を撮ってぼーっと出発を待っていると、おもむろに話しかけられた。何処から来たの、と聞かれて、東京だ、と答える。彼はオーストラリアから来たと言っていて、東京はvery crowdedだから好きじゃないね、と言われた。面倒だったので概ね同意しておいたが、船が出発してからえらくはしゃいでいたので、こういう人なら東京だろうと大阪だろうと別にもう楽しめるだろとは思った。言わないけど。

 

 

 

【海の見える公園】

 施設に入っている祖母に会うべく山道を登っていると、海が目下に広がる崖沿いの公園を見つけた。ブランコと滑り台があって、弟と一緒にはしゃぎながら漕いだ。この後の祖父の法事のために喪服を着ていたから周りから見たらさぞかし滑稽だったろうと思う。ひとしきり満足して「田舎って素敵だわ」と言いながら公園を出ると、山のずいぶん上の方にやたらと小綺麗でモダンな建物を見つけた。母曰く「一泊何万もする高級ホテル」らしく、なんとも言えない気持ちになった。

 小さい頃からブランコが大好きだった。近所の公園でずっと空を仰ぎながら乗っていた。季節と木々の匂いが鼻を抜けて、仰いだ空に網をかける葉っぱの緑にお陽様の色を見て。ここに海があったことも、あそこに海がなかったことも、両方が大切な要素だったように思う。なんてことを老人ホームへの坂道を歩きながら綴っている。

 

 

【祖母の施設】

 半年ぶりに祖母に会った。山の中腹にある新しい介護施設で、海が一望できる待合室で顔を合わせた。私と似ていてちょっと辟易するところではあるが、母は昔からやましさのようなものに人一倍過敏で、道中何度も「もう話は通じない、ぼけてるから、話すだけ無駄だよ」と言ってきていて少し身構えていたけれど、全然そんなことはなくて、楽しく話せたように思う。少し小さくなっていたが、相変わらず溌溂とした話し方をする。予防線をただのエゴで張り続ける母のような性格には良い気持ちがしない。自分にも同じ部分があることにも、嫌な気持ちしかしない。

成人式の振袖で迷っていることを相談した。好きなものを着たらええよ、と言われる。そんなことは分かっているのよ、分かっているけど、好きとかって特にないのよ。

 

 

 

【寺】

 親戚一同が集まって、祖父の一周忌を行った。お寺までの道が思ったよりもごつごつとしていて、慣れないパンプスのせいで足がえらく痛くなる。非常に痛い。伯父と久しぶりに挨拶をした。相変わらずかっこいい。こちらの言うことが3割しか伝わっていないような顔で笑う。そこが誰よりも好きだった。寺の住職は感じの悪い人。節々からやたら恩着せがましいと感じてしまった。ここが異国の地なのをいいことに、私は愛想を捨てることにして、ただ一度も眼を合わせることなくうつむいて数珠を握っていた。

 ここが何系のお寺なのか理解してもいない私がもちろん無知なだけなのだろうが、いきなり渡されたお経のカンペで、即席で「皆さんさあご一緒に」で皆様すらすらとついていけるものなのだろうか。ものすごく独特なリズムをしていませんか?あれ即興ですか? 親戚一同動揺しおいて行かれている中、こだまのはしくれというプライドを抱いた私と現役国語教師であるというプライドを抱いた従妹が半ば意地で完璧に住職の呼吸を読み切り、場をけん引した。帰り道、ヒーローが如き扱いを受ける。伯父だけはまた、ただ笑っている。

 

【祖父の墓】

 そのあと祖母宅でみんな揃ってお弁当を食べてから、和やかに解散した。私たち家族は歩いて15分ほどの場所にある山の麓の祖父のお墓へと向かった。この島へは何度も来ているけどこの外れ道を歩むのは初めてで、新鮮な気持ちになる。水を汲む。母について行くままに墓地の中を抜けて、一番奥の、ぽっかりあいた陽だまりの中に祖父の名を見つけた。良い場所だね、と父が言う。否定が癖の母も、珍しくそうねと頷いた。私はただ墓石を眺める。真新しくてつるりとしている。顔を上げて後ろの森林を見つめる。山から降りてきた風が頬を撫でた時、何年か前に、創作仲間と書いていたお墓参りについてのリレー小説を思い出す。景色が同期されそうになって視線を戻す。母と父が合掌を終えるのを待って、それに倣いながら膝を折り手を合わせ目を瞑った。

 

【成城石井】

 再び船で岡山へ戻って、岡山駅で晩御飯を調達することにした。駅から直通のホテルなので、駅中の通りすがった成城石井で適当に揃える。気を利かせた弟が「お味噌汁みんな分取ってくるね」と言って店の奥に消え、「僕の身長が足りないばっかりに……」と三つのカップみそ汁を抱えて悲しそうに帰ってきた。どれどれと思い私も見に行く。ありえないほど高い位置にあった。手の届く位置の棚は伽藍洞。そういえば身長はとうに弟に抜かされているのだから私が見に行ったってどうしようもないのだけれども。父が身を引いて、代わりに美味しそうなカップ麺を買っていた。

 

【ホテル】

 テレビを見ながら晩御飯を食べる。ローカル番組は目新しくて興味深い。順番にシャワーを浴びて、夜景見たさに勝ち取った窓際のベッドに寝転びながら軽く脚本を進めて、この文章を終わらせんとしています。明日は軽く観光をするだけ。既にあまりに長くなってしまっているのでこのプチ旅行記はここで終えます。

 

 旅行記、という表現は絶対に間違っていて。

 祖父を悼む目的なわけだから。

 

 こんなにも長い文章を連ねて、きっと不謹慎に瑣末なことをたて並べて。私は一体何をしているんだろうか。

ずっと考えていた。祖父のことは。死んでしまったら忘れてしまって、声から思い出せなくなるだとか言うけれど、まだそんなこともなかった。

 私はいったいなにを言いたいんだろう。岡山での一日を記録したいわけじゃなかった。祖父への感情を整理したいだけだった。場所から場所へ、移動する度ノートを開いたのはずっと祖父のことを考えていたからだ。なんとかして文字に出来たらと思っていた。そうしたら、微かで曖昧な哀悼が形に起きてくるんじゃないかって。文字を都合よく使う人間が嫌いだと普段息巻きながら、こんなところで頼るしか無かった。想いが足りていないのにそんなこと、都合がよすぎるのに。何を試す資格もないのに。もう遅いのに。

 

全部言い訳だ。あまり喋らなかったからとか遠かったからとか何も関係がない。ただ私が

私が馬鹿なだけで。

 

適当な生き方をしているだけで。

思い出なんて思い起こせばたくさんある。港まで迎えに来てくれたこと、普段部屋から出てこないのに見送るときは五分前から廊下をうろついてくれていたこと、写真を撮るときに膝にのせてくれたこと、蚊に刺されたと言ってイライラしている私のために炎天下アロエを刈りにいってとってきてくれたこと。全部私が雑に扱っていただけだ。祖母を訪れた時だってそうだ。本当は会話の中で「おじいさんも女孫の中で一番最後までもかちゃんのことはちゃんと覚えとったけね」と言われていたんだ。それをここに書こうとしなかった。無かったことにしようとしたのだ。胸が痛んだかどうか自覚する刹那、押し流して隅で蓋をした。希薄な関係性だったと言えなくなってしまうから? わからないけど。悲しむことが善だという価値観とはどうしても相容れない。

 人間いつか死んでしまうじゃないか。そうして傷つくのはナンセンスだ。だってどんなに悲しんだって。

 その先は省略する。あまりに判然としている。

 だから関係性が希薄であればあるほどよいのだと、思い始めたのがいつからで言わなくなったのがいつからだったか。そうして過去が出来上がってゆく。出来上がった過去を皮肉って嗤って、そうして今を疎かにしていく。だからいつまでも変わらないんじゃないの? だからいつまでも自分が嫌いなんじゃないの。私は人間が出来ていないのだ。祖父の訃報を受け取ったのは共通テストが終わって二次の勉強が本当の佳境に入った頃で、父がそれを知らせてきた時、真っ先に沸きあがってきたのは父への怒りだった。笑ってしまう。髄まで独り善がりで、ならお前が死ねと、今なら思う。

 何を書いているのかわからなくなってきた。なんにせよ、きっともう遅すぎるのだと思う。亡くなったと聞いて泣けなかったとき、私の中でそういう風に分類されてしまったのかもしれない。こういう非人道的な遣る瀬無さは、演劇には向いていない気がする。いや違う。こんなことを書かなきゃと思った気じゃない。こういう風にすぐに逃げることが嫌なのに。

 

 先にわからないといったのも、思考を放棄したかったからに他ならない。知っていてやってのけるのは自分がそういう人間だからだ。変えられるのは自分だけ、変わるのも自分だ、思ってるだけじゃだめだ。そんなこと何十回も自覚している。祖父の死だって、その最中にある。分かってる。

全部駄文だ。

これ以上裂いても仕様が無い。書くことももう無い。

ここまで書き連ねた自己批判や卑下のようなものだって、結局「自己嫌悪」としてコンテンツ化されていく。意味なんて何もない。見るに堪えない、聞くのも鬱陶しい吐瀉物のような鬱血の叫びが腹の中でぐるぐると渦を巻いていて、その辛さから逃れたいだけだ。悲しみたいんじゃない。ただ悼みたい。許して欲しい。我儘になることを赦して欲しい。逃げなければよかった。もっとたくさん、話してればよかった。会えて嬉しいと発音していればよかった。会えて嬉しい、話せて楽しい、もっと話そうよ、まだ寝てしまわないで、夜会えないなら朝に起こしてよ、アロエなんてよかったのに、暑いのにありがとう、私のこと大切だった? たまにでも私を思い出すことはあった? 迎えに来る時嫌じゃなかったのかな。面倒臭さに楽しみが勝っていた? さよならを言う前は名残惜しい気持ちになってた? 後出しじゃないと何も言えなくてごめん、聞いてからじゃないと気持ちを作れなくてごめん、ごめんね、ごめん。ごめんね。

 

 

 疾うに日を跨いでしまっているのでここで終わる。明日の朝はバイキングに振れたので六時の起床。

 夜景を見下ろす。向かいの東横インも、明るい窓の数がずいぶんと減った。穏やかな音楽を流していた焼き芋のワゴン車はいつのまにか撤収していて、一組の男女が来月撤去予定の噴水の前のベンチで肩を寄せあってゆるやかに言葉を交わしている。ロータリーからは、最後の一台のタクシーが走り出している。