ずっと好きな人がいます。心の中にしんと棲んでいるひとです。この書き溜めを始めたのも、そのひとの影響だったりもします。

 

 私は人間が好きな方のたちだから、出会いが増えると好きな人たちも増えていくのですが(木霊の同期にも好きだなぁと思う人はたくさんいます。先輩信者だった高校時代の私とは違って、大学に入ったここ数カ月で同い年の大逆転が起きていて、好きの大きさはめっぽう同期に多いかもしれないことに最近気が付きました。わりと信じられないです。同期の話もいつかします。)、そのひとだけは、そのひとだけは堅く堅く心に居ます。もう自分が強く抱かれていて離れられないのか、自分が強く抱いていて今にも取り込まんの瀬戸際で震えているのかわからぬほどに愛が猛烈に生産消費されていて。いつかついにボタンを違えるくらいの間違いで狂ってしまって、そのまま死んでゆけたらなぁと思っています。私は人が出来ていないから、病死も事故死ももうこりごりだと思ってしまう。

 

 創作というのは自分の心を少なからずいくらかは抽出して行うものであるから、私の今までの創作物にはすべからく彼が滲んでしまっていて、ちょっと気まずいです。木霊はたぶんそういうのをよしとしないひとが多いのではないかなぁと思う。だからちょっと言えないです。自分の心を自分で保って握って育てていけるひとはすごいですね。尊敬とか嫉妬とか。とかとか。

 話は逸れますが、尊敬する人が自虐をしていると、ちょっと安心するとともになぜかしんどくなってしまう。あなたほどの人くらいは自分を愛しきれるくらいの世の中でいてくれと。でもそういう人は次第にちゃんと上を向いて立ち上がって駆けていって、私はよかった!って手を振りながらまたじくじくと痛みだす劣等感を必死に制していたりして。哀しくなってくるな字面にするとと思ったのですが、まあいいかどうせ誰に見せるわけでもないし。

 というわけでいま公演に向けて絶賛脚本執筆中なのですが、なんというかまあ行き詰っていまして、「病み期」のようなものは来るわけで、そういうときに自分の市場価値のようなものに思いを馳せてしまいます。よほどの才能がない限り、もう何をしても何かの二番煎じ三番煎じになることは明らかで、才能もないくせにそれが一丁前につらくて。ものごとの価値はすべて一定で、差があるようにみえるものは勝手に世の中にのさばっている価値観の影響で、だから君の作品だって何にも劣らないんだよっていう理論にあやかろうとしたときもあったけど、なら私が人生をかけて芸術を追求するとしたら、わたしの人生の価値はどこにあるんでしょうか。生きる意味は誰が担保してくれるのでしょうか。何をしても平等ならば。私はそれに満足できる性格を形成できなかったのだと、その時に気付きました。

 やっぱりこういうぐちゃぐちゃに勝てるのは愛なんだよな。愛って痛み止めみたいな使い方もできるじゃないですか。というかそれがメインか。愛してほしいです。でもそれを頼むにはある程度自分に自信がないとだめで、それすらないから声帯の無い乞食と化してる。

 

 それでも貪欲だから愛してるなんて言えるんだろうな。愛してるよって下唇を噛みながら太々しく目線をかち合わせに行って、ああかわいそうだなって、愛か、返してあげようって思ってくれないかなって、バレバレなんだよ自分には。だから自分のことがいつまでたっても嫌いなんだろ。浅ましくて見れたもんじゃないからさ。この話はここで畳みます。

 

 自分以外のすべてを差し出せて、だから君は、後はわたしだけ持って埋まってよって、言えたらいいのにね。

 

 

 

 年が明けて三日が経った。冬休みももう終わり。