画像の引用は「著 OSHO『草はひとりでに生える』」から。









シリーズ化する予感はある。なぜか? ラメッシ・バルセカールについて書くのに飽きたからだ。「誰がかまうもんか?!」は確かに名著であることは疑いようはないのだが、どこまで行っても「それはプログラミングで…」「だからそれをやるあなた、個人的行為者というのはいなくて…」「それゆえあなたは責任も罪悪感も持つべきではなく…」といった感じなのだ。だから飽きたンゴ。



ということでOSHOの本に切り替える。ラメッシの本は何度も何度も読んでいると楽しくなくなってくるが、OSHOの本は何度読んでも美しい。さすが私の師である。なぜこの「草はひとりでに生える」なのかといえば、単にこの本がKindle Unlimitedによりタダで読めるからという以上の理由はない。



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(「ンゴ」とか「草生える」などと言っている場合ではないのだ)



と、散々ラメッシについて言ったが、ラメッシを理解することによってOSHOを理解するのが簡単になるはずだ。精神世界で「この世は夢、幻、マーヤ」だとかなんだとか言っているのを聞いたことがあるかもしれないが、ラメッシを読んだ後にOSHOを読むとそういったことがわかりやすくなる。睦州に言わせればこの世界が夢なのではなく「あなた」が夢なのであり、ラメッシ風に言うなれば「個人的行為者という感覚」が夢なのだ。



そうしてそういった感覚、「わたし」が夢であることに気づくためのワークを睦州は提案している。「着て 食べるがいい」。OSHOはそれを「トータルに着て食べる」と表現している。私はたまにそういった行為、着たり食べたりすることを「見守る」という表現をしているが、この「見守る」ということと「トータルにやる」ということは同じことを指している。



が、結果として見られる状態としては同じなのだが、そこに向かうアプローチが違う。「トータルにやる」「全一にやる」「意識的にやる」というその行為そのものに成り切るアプローチと、「見守る」「観る」「観照する」というその行為から離れるアプローチがある。これは別に私も今この瞬間から「トータルにやる」か「見守る」かアプローチの仕方を即時に切り替えることができる。結局のところどっちのニュアンスが自分にとってわかりやすいか、感覚を捉えやすいかという好みの違いでしかない。ちなみにお前は今どっちの感覚で記事を書いていたのかって? 私は…無意識だった!(は?)




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