聖なるジョーク






OSHOはこの自己の探究全体を「自分の靴紐を掴んでジャンプしようとするようなものだ」と言う。あるいは「犬が自分の尻尾を追いかけ回すようなもの」といった比喩も聞いたことがあるかもしれない。



探究者はまず「自分」を抱えた状態で、「自分」がいるという前提で探究を始める。「自分が幸せにならなければ」「自分さえいなければ」「自分で頑張って努力しなければ」…そういったわけで本を読んだり、精神世界のブログを読み漁ったり、坐禅したり、南無阿弥陀仏と唱えたり、はたまた世界中を旅したりする。



もしそのワークが肉体に対して有効に働けば、そのワークをやっていること自体が自分の力ではないことに気づいてくる。



「あれ…俺一日中瞑想してるけど、瞑想してる時としてない時がある。確かに頑張ろうとはしているのだけれど、どうやらこれはコントロールがきかないことなのかもしれない。ともするとこれをコントロールしているのは誰なのだろう?」



「あたしゃ一日中南無阿弥陀仏と唱えている。もう口癖になってしもうとるわ。何の努力もせずに、何も考えずに阿弥陀さんの名を口ずさんでいるけれども、こりゃあたしが唱えているのかね? あたしじゃなけりゃ誰が唱えているんだい?」



そういった感じでどんどん「やっている自分」というのが落ちてくる。が、皮肉にもこのワークを始動させたのも神(宇宙)であり、そうさせるよう指導(少しだけうまい)したのも神なのだ。「指で導く」というのは良い漢字である。私たちは神の指人形みたいなものなのだ。



なんでわざわざ神はそんなアホみたいな人形遊びをしているのか? こればっかりは私たち、指先につけられた指人形たちにはわかり得ない…! だってこれは神が後から自分の指にヒョイッとつけただけなのだ。そんな後づけの指人形に本体様の意図などわかるはずもない。しかも指人形はただ指先に引っ付いているだけで、それを動かしているのは神、本体様なのだ。指人形目線からすればなんだかしっちゃかめっちゃかに景色が動いているし、それを「自分で動いている」と錯覚するのも無理はない。そうしてわざわざそういった錯覚を意図的に生み出した後、神は「もうこの遊び飽きたンゴ」とでも言わんばかりに「この自分というのは錯覚じゃないのか?」という疑問をその指人形に抱かせ、その指人形に本を読ませ、その指人形に師を探させ、その指人形に瞑想させたりする。そうして指人形は「なーんだこの肉体はただの指人形だったのか。自分っていう主体がいるかと思ってたけど、全部神がやってただけなんだねぇ〜」と神を認識する。



「瞑想すると人生がスムーズになる」とか「信頼すればするほど、神に委ねれば委ねるほどうまくいく」とかいったことを聞いたことがあるかもしれない。これは指人形が神の指の動きに抵抗しないからであり、神に好き放題思う通りに指を動かさせるゆえにこういったことが起こる。が、その「スムーズになる」とか「うまくいく」とかいうのは私たちの社会の「良い」という観念に必ずしも沿ったものではないかもしれない。だってそうだろう、そういった人間社会の観念が生まれるはるか数十億年前から神はこうして指を動かして遊んでいるのだ…! 本当に気持ちが悪いやつだな。



それでも、私は私の人生をずっと観てきたわけだが、瞑想を始めてから明らかに生きやすくはなったし、今現在もとてつもない恩恵を受けている。「神なしではあり得なかった」と言えるような幸せな状況にすらあるかもしれない。が、その瞑想を続けていく中でとんでもない目に合わせられたのも事実だ。控えめに言って耐えがたいものだったので本当に神が嫌いである。だからこうして神にバレないようにブログに散々神の悪口を書いているわけだ。



では瞑想を始めてから神が初めて仕事をしたのかというとそういうわけでもない。既に書いたように神は瞑想をしようがしまいが暇そうにずっと指を動かしているのだ。だから当然瞑想を始めさせるまでの過程でも神はずっと指を動かしていた。私の場合でいえば、クソみたいな過程環境で育ったこと、毎日腹の底から笑い合える友人たちに巡り会えたこと、頭脳も身体能力も容姿もそこそこで「井の中の蛙」ではあれどその場所で世間一般の満足というものを知ることができたこと…この全ては瞑想とは関係がないが、そういった探求を始めさせる土台をつくったのも全て神の仕業だったのだ。



こうして書いてみるととんだクソゲーをやらされているように思える。しかしこれは本当にクソゲーなのか? いや…神ゲーだろ…!




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