画像の引用は「著 ラメッシ・バルセカール『誰がかまうもんか!?』」から。








ティールス・バーンは暇なので散歩をしていた。すると女性が暴行を受けているのを見かける。が、ティールス・バーンはヒョロガリで男に勝てるわけもないし、よくわからんその辺の女性を助けるメリットもないし、その後駆けつけるであろう警察も嫌いなので無視して散歩を続けた。



散歩を終えて帰宅した後に、「いやいやあれは俺の肉体のプログラミング通りに動いただけなんだ。だから俺は少しも悪くない。あの後あの女性がどうなったって俺の責任じゃないんだ((((;゚Д゚)))))))」と思うのには無理がある。こういったラメッシの文章を読んだからと言って、「なるほどそうか! 責任というのは全くないのか! じゃあこれから毎日お気楽に生きられるぜ! うおおおお」とはならない。もしそうならこの本を購入したであろうAmazonレビューを書いたような人たちは全員救われているはずだ。



だから私は読書ではなく瞑想を推すのだ。ティールス・バーンという名前がついた肉体が歩き、散歩しているのを見守る。女性が暴行されているのを見かけた時に「(うわ…男つよそ…)」「(あの女ちょっとブスだな)」「(通報したらなんなら俺が捕まる可能性すらワンチャンある)」といった思考が浮かんでくるのを見守る。その後の衝動、助けに行くのか、通報するのか、あるいは明後日の方向に体を向けて散歩を再開させるのか、それを一瞬一瞬注意深く見守る。散歩を再開させたのならば、「(うわーやっぱり通報しときゃよかった。とりあえず通報さえしときゃこんな罪悪感持たずに済んだのに)」などといった思考が浮かんでくるのを見守る。その思考が鬱陶しければその場で遅れて通報するかもしれないし、「(まあどうでもええか。帰ってゲームしよ)」という衝動の方が強ければそのまま帰宅するだろう。



この全てに「個人的行為者」「私」「自分」というものは存在しない。ただこのだだっ広い宇宙空間の、日本の領土の神奈川県の地上でそういったエネルギーが巻き起こっていたというだけだ。だから特定の誰かが責任や罪悪感を感じる必要もない。もちろん責任や罪悪感を感じることもそのエネルギーの渦の一つなので、究極の理解で言えば、こういった罪の意識を感じることすら「まあオーケーオーケー。俺にはまだそういう理解がないから罪悪感を感じているんだ」とニンマリしていればいい。



だから「見守る」という、この宇宙の外側に視座を置くスタンスは役に立つ。別に精神世界の本やブログを読み続けても私には関係がないので全く構わないが、それで人生が変わるという人は今の人類にはいないだろう。自分がアシュタヴァクラに教わったジャナクや、ゴータマ・ブッダから即時的に悟りを得られたマハカーシャパほどの逸材であるという自負があるというなら話は別であるが、基本的には何かをしなければ何も変わらないというのが事実だ。



この数十年、精神世界というものがこんなにも流行ったのにも関わらず、人類の雲行きがどんどん暗くなったのにはこういう理由がある。形而上学的なこと、「真理とは〜」「自分はいない」「あるがままでいい」「全ては起こっている」、こういった知ったような言葉だけを羅列していたばかりに、人類はこんな感じになってしまった。



もちろんこの全てが「そういう風に起こるようプログラミングされていただけ」なのだが…ん? 「プログラムされる」「プログラミングされる」どっちだ? ラメッシの本を見てもどっちの著述もされている。でも「プログラミング」というのが名詞の形を取っているから、「プログラミングされる」と「名詞+動詞」の形にするのがいいのか? いやでも響き的には「プログラムされる」の方が…(沸騰)


 

 

 

 

 



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