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だが、勤続三十年の熟練労働者と同じ待遇を新人に与え、社長も部長も平社員も全て同じ給料にすべきだと考える者はいない。それに才能に恵まれた者は均等分配を受け入れない。したがって不満が渦巻き、社会が安定しない。それでも均等分配を維持するためには圧倒的な強制力が要る。幼少の頃からイデオロギー教育を施し、違反者は強制収容所に閉じ込め、再教育する。それでも態度が改まらなければ処刑する。つまり全体主義社会でなければ、ペルソンの説く正しい秩序は実現できない。
『正義論』の著者ジョン・ロールズはメリトクラシーの欺瞞をよく知っていた。出生時に親から受けた先天的性質に加え、家庭教育および社会環境という外因から各自の能力が生ずる。したがって格差の責任は当人にない。そこで、すべての生産物をいったん没収して社会の共同所有とし、その後に共有財産を適切な方法で再分配する論法を採る。実際に没収するのではない。だが、論理は同じだ。偶然に起因する能力は自己に属さない。ゆえに生産物への権利は誰にも主張できず、社会全体の財産として共有しなければならない。
ところがペルソン説のように富を全員に均等分配すると、高い能力を持つ者の労働意欲をそぎ、生産性が下がる。そこで能力に見合った労働を引き出す誘因を与え、社会全体の富を増やす。そして累進課税を通して富を適切に再分配すれば結果として、能力が低い者もより良い生活を享受できる。質と量に優れた労働をなすから多くの富を得る権利が高能力者にあるのでない。各人の能力は外因の沈殿物だから生産物への請求権は誰にもない。下層者の生活を向上させる手段としてのみ格差が正当化される。これがロールズの立場だ。
だが、ロールズの構想は自ら墓穴を掘る。貧富の差は単なる手段であり、各人の価値が判断されるのではない。だから劣等感は生まれないとロールズは言う。そうだろうか。ある日、正しい社会を成就した国家から通知が届く。
欠陥車の皆さんへ
あなたは劣った素質に生まれつきました。でも、それはあなたの責任ではありません。愚鈍な遺伝形質を授けられ、劣悪な家庭環境で育てられただけのことです。だから、自分の無能を恥じる理由はありません。不幸な事態を補償し、劣等者の人生が少しでも向上するように優越者の文化・物質的資源の一部を分け与えます。あなたが受け取る生活保護は欠陥車としての当然の権利です。社会秩序は正しく定められています。ご安心ください。
分配が正しい以上、貧困は差別のせいでもなければ、社会制度に不備があるからでもない。差は正当であり、恨むなら自分の無能を恨むしかない。格差が不当だと信ずるからこそ、人間は劣等感に苛まれないですむ。しかし公正な社会では、この自己防衛が不可能になる。理想郷どころか人間心理を無視する砂上の楼閣だ。
平等の問いには解が存在しない。四辺を持つ三角形を描こうと頭を悩ますように、平等は論理的な袋小路だ。それなのに何故いつまでも論争が続くのか。平等という地平線はなぜ消えないのか。格差を理解するためには近代の本質に切り込まねばならない。自由と平等は近代の宗教である。その化けの皮を剥ぐのが本書の目的の一つだ。
(p19〜21)
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この本のいいところは著者が自分の意見を主張していないところだ。全編にわたって「こういう事実がある」という羅列に終始している。日本の大学制度はこうなっているから高校の時点で勝ち組負け組が選別される、そういった選別があるのに負け側がそれを心理的に受け入れられる仕組み、一方フランスの大学制度は…など、現代社会の制度と「責任のある個人の不在の理解」を織り交ぜて語られている。が、とはいえこういった「勝ち組負け組」という言葉は読んでいて胸が抉られる人も多いかも知れない。私自身も負け組なので読んでいてしんどい。日本では両親が大学卒ならこうで〜とか、フランスでは片方の親が中卒だと大学卒業率が〜とか、旧帝大や早慶上智なら〜とか、明確にデータが羅列されているのだ。Fラン中退の私は卒倒ものである。
↑にコピペしたものの内容に触れよう。このブログで散々「どんなことであれ個人に責任はない」と書き連ねているが、その理解が起こる人もまた限られているのが事実としてある。そのことを鑑みた時に、上記の「欠陥車の皆さんへ」という問題が浮かび上がる。一通り記事を書いた後に読み返して漢字間違いなどないか確かめた後にこの部分だけ書き足しているのだが、この「欠陥車」という間違いはあながち間違いでもない。ただそのように造られただけだからだ。
この記事で私自身が書いた文章の最初の段落で私は自分自身を揶揄したが、そうできるのもこういった「個人の不在の理解」が起こったからであり、それは偶然による恩寵の賜物でしかない。そして私はある一面において社会的に劣っているという自覚があるが、別の面においては他者よりも優れている自覚があり、またそういった面を社会的にも認められてきたからこそ自信を持って自分を揶揄できる。
では全く能力もなくて社会的に認められなかった人に対しては「欠陥者の皆さんへ」で済ませていいのだろうか。まず第一に、私自身経済的に困窮していて明日住む場所も食う金も財布に10円も残っていないという日々があった。その時に何が問題だったかといえば、社会から「お前は欠陥者だ」と言われる、思われるという心理的なことが問題だったのではなくて、あくまで「安心安全に過ごせる場所と飯がない」ということだけが問題だったと記憶している。
とはいえ多くの人にとっては心理的な問題、劣等感という問題があるのも事実だろう。が、その割合、24時間のうちどういったことで頭を悩ませているかといえば、その多くの時間は「お金どうしよう」「住む場所が」「がんばって働かなくちゃ」といった金銭に関わるものであるはずだ。だからまず社会制度が、政府が担うべきはこういった金銭面の支援であり、その他心理的側面などに関しては彼らが拘うことではない。というかそもそも政府の人たちはアホなのだから、そんな細かいことを気にせず遠慮なく衣食住を保障して頂けたらと思う。ん…言い過ぎか…? まあでも政府というのは底辺で国民を支えるというのが仕事であって、そこから生み出される心理的軋轢などは知性のある人たちに任せていればいいのではないかと思う。今の政府の形はなぜか国民の上に政府がいて、なぜか私たちの上からお金が配られ降ってくるという仕組みになっている。しかも大半の国民よりも政府の人間の方が給料を貰っていて、国民を底辺から支えるというよりも搾取している面しか見受けられないのが悲しい現状である。
ちなみにこの本の著者の小坂井敏晶さんの本は学術書の扱いだからなのかは知らないがどこの図書館にも大抵ある。気になる本があれば借りてみるのがいいだろう。