画像の引用は「著 OSHO『草はひとりでに生える』」から。





























全体は、存在は、宇宙は、神は私たちの敵ではない。最近の私は毎日毎日その限りない恩恵を受けていると感じる。


思い返せばお金が財布にも口座にも1円もなく住む場所もないという時ですら全体は私の味方をしてくれた。私をそんな苦境に追いやった全体がつくづく嫌いだったので毎日毎日頭の中では「◯ね」「◯すぞ」などと不平不満ばかりが湧いてきていたのだが、それだけ全体に悪口を言っていてもその後全体は私の肉体をスムーズにお金も住む場所もあるところへ運んでくれた。


いやまあ「そんなに全体が優しいならそもそもそんな苦境に追い込むなよ」とおっしゃるかもしれないが、この経験は私にとって非常に学びのあるものだった。心の奥底でそういった貧困者を馬鹿にしていたり、ホームレスなどを見る際も「自分とは関係ない」などと思っていたりしたのだろう。そういった偏った観念を持っているとこの全体はそれを「お直し」する側面があるように思える。


そういった苦境にあると、もはや自分の力は信用できなくなってくる。なぜなら自分の力でずっと頑張ってきた末路が「お金も家もない」という結果だったからだ。悲しい男である。そうなるともう神頼みしかない。「確かにお前はクソで、信用足るに至らないが、少なくとも私の頭よりは信頼できる。というかもう私の力ではどうしようもなくなってしまったから、すまんのだがあとは頼むわ」といった境地である。


「といった境地」で生き始めてからどれくらいの年月が経ったかはもう忘れたが、少なくともその境地は私が欲しいものを全てくれた。それは月収100万、美人な妻、大きな家…ということではない。また月収83万、顔面偏差値48の妻、そこそこの家…ということでもない。要は程度とか「ぼくの考えた理想のおとな」ということでもないのだ。私の頭にはなかったはずなのに、叶えられてみれば「これこれ! これが欲しかったんや」といった感じではあるのだが、正直そのどれをとっても到底人の頭で考えうるものでもないし、それを実現させる手段も人智の及ばないものばかりであった。


ただ、全体は意地悪というか、常々感じるのはどこまでも人間的であるということだ。世を見渡してみても、全体に明け渡している人ほど、普通の人ほど、不自然な意志を必要とする努力をしていない人ほど、この宇宙を信頼している人ほど幸福そうに見える。つまるところ「条件付き」なのだ。


とはいえ「だから瞑想などのワークをやればやるだけ幸せになる」とも安易に言えないのだ。なぜならそのワークをさせる権限自体が全体にあるわけで、つまり幸福になるかならないか、その個体ごとにもう既にプログラムされてしまっているという現実がある。が、幸いなのは我々はそのプログラムや未来を知ることはできないし、我々は自由意志があるという感覚を携えているということだ。


この道には2つのやり方がある。1つが私がよく言う瞑想の道であり、もう1つが愛の道だ。他にもまあ色々あるのだろうが割愛する。


瞑想に関しては散々書いたので省くとして、愛について少し書いてみる。愛は特別なことをするわけではない。ただこの全体を信頼する。そもそもこの全体には信頼する必要性も信頼しない必要性もないのだ。その辺の野良猫はこの全体を信頼したりこの全体に明け渡したりはしない。ただ生きているのみである。


のだが、私たちは「ただ生きているだけ」ということができなくなってしまった。産まれて間もない頃は「ただ生きているだけ」で許されていたのだが、歳を取れば当然そんなことは許されなくなる。私も「ただ生きているだけ」という期間が多くあったのだが、いつしか周りの人たち全てがそれを許してくれなくなった。


ということで、意図的に私たち人間は信頼したり明け渡したりする必要性がある。なぜなら「ただ生きているだけ」ではいけないと思いこんでいるからだ。そこで「ただ生きているだけ」でいいという理解を得るために、前回の記事のような列子から見た老子や、尹生から見た列子のような存在が必要になってくる。


その信頼する対象、明け渡す対象が悟りを得ているかどうかは重要ではない。要点は「ただ生きているだけ」でいいという理解を得ることであって、その対象は重要ではない。OSHOも講話の中で「明け渡す対象は何でも構わない。あなたが明け渡せるなら石でも木でも自然でも宇宙でもマスターでも何でも構わない」的なことを語っている。とはいえ現実的な問題として、なかなか私たちがその辺の石に明け渡すのは難しい。であるからして、自分の存在を賭けられるだけの器量を持つ人間のマスターが役に立つのだ。


瞑想にせよ愛にせよ、「自分」が消えればいいだけのことだ。が、「だけのこと」とは言ったものの、「では今から信頼してマスターに全てを明け渡せ」というのは骨が折れる。なので列子と老子のように徐々に信頼し明け渡していくという過程が必要になる。私が知る限りにおいて言うなれば、この作業は明け渡す方も明け渡される方も死ぬほど骨が折れる。ちなみに私がその道を歩んだわけではない。そもそも大前提として、並大抵の人間が「私の全てを捧げます」と言うことはできない。当然であろう、誰だって自分で人生をコントロールしたいし、自分の人生を支配下に置きたいからだ。それを例えばマスターに「私の全てを捧げます」と言うことはいわば人生を捨てることだ。なのでそのマスターがどれだけ自分の人生を賭けるに値するかを見定めるのが重要になる。


が、現代ではその双方、人生を賭ける側も賭けられる側もほとんど存在しなくなってしまった。まあ賭ける方は現代教育の結果として当然ではあるが、賭けられる方だってたまったものではないのだ。人間1人の人生の全てを請け負う…その人の善い部分も悪い部分も全て含めて受け容れて何もかも認める…口で言うは容易いが、それが非常に困難であるのは言うまでもない。


しかし現代でも、人生を賭ける側の人も賭けられる側の人も実在することは私が責任を持って保証しよう。賭けられる側はまあそういったものに知見があることがままあるが、賭ける側の素養を持った人間はこういった界隈に無縁であることがままある。いわば普通の人がそういった愛の道を通ることで悟りを得ることがあるのだ。


そういった愛の道に関するOSHOの講話を貼り付けて終わりにしよう。以前紹介したことがあるので重複する部分もあるが、まとめて貼り付けておいたとてバチが当たるわけでもあるまい。


(ティロパが弟子のナロパに語ったもの)




(イエスの山上の垂訓)



(スーフィズムの短い逸話を集めたもの)


 


(チャランダスの元で悟りを得た女性2人、サハジョとダヤについて)




(「バウル」と呼ばれた、唄いたい時に唄い、踊りたい時に踊っていたインドの個人たち)


↓はついでにバウルに関するOSHOの講話




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