画像の引用は「著 OSHO『草はひとりでに生える』」から。
































コピペするための言い訳を書かなければならない。これを読んでなんとなく私と大乘住職の関係を思い出した。が、そもそも彼は私のマスターではないし、私が彼と知り合ってからまだ10年くらいだ。ちなみにこの列子は老子の弟子である。「3年」「それから5年」「それから7年」「それから9年」…最初読んだ時私は列子が老子の元に9年いたと思っていたのだが、OSHOによればこれらの合算で24年いたことにらしい。



これは信頼の道だ。「なすべき人はいないし、起こるべきことが起こるだけなのだから、ただただ信頼して待つ」といった類のことができる人はこの道を歩めばいい。が…24年っ…! カイジの地下労働施設でもそんなには一箇所で働かないんじゃないか。現代人にこれだけの資質を持った人がいるようには思えない。



のだが、こういった師弟関係とは言わずとも、そういった信頼の質がある人を私はこの目で見てきた。その存在自体が稀有であり本人も自覚していないことがままあるが、そういった肉体が存在しないということでは決してない。とはいえ瞑想とは違って「よし! 今から信頼するぞ!」といったワークのような類のものでもない。そういった資質を持った人が自然とその道を結果的に歩むことになるのであって、「歩こうとする」といった類のものではないのだ。



この資質が生まれ持ったものであるゆえだからなのか、こういった人たちは非常に美しい。このブログを読んでいる方ならわかるであろうが、↑にも出てきたティロパ、バウル、ブログで紹介したことのあるダヤやサハジョ、浄土真宗の妙好人たち…。私には生来そういった資質がなかったためにこういった人たちに嫉妬するわけなのだが、こういった人たちは生きることがまず難しい。非常にナイーブで感情豊かなことが多い。が、現代社会の中にもそういった人たちが埋もれている可能性は多分にある。いや…実際にいる! だからそういった人たちも自身の道を見出すことを願わんばかりである。



そういや↑のデルガドの実験、OSHOの講話にはたびたび出てくるのだが、外へ出てもテレビやネットを見てもこの実験にあるような電極を脳につけられたようなやつらばっかりだ。もちろんこの電極をつけられることも、取り外すよう努力をすることもただ物語の中で「そのように起こる」というだけなのではあるが、私個人としてはもう少し牛ではなく人間が増えてくれた方が見ていて面白い物語になるのになぁと思う次第である。




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