画像の引用は「著 ラメッシ・バルセカール『誰がかまうもんか!?』」から。















素晴らしい文章だったからとりあえずスクショして貼り付けたのだが、実を言うと何も書く内容が思い浮かんでいない。書く内容がないよう。



が、私のすぐ後ろから著作権警察が後をつけている。監視の目をかいくぐるためにもこのスクショに関連づけて何か書かなければならない。



「すぐに怒ってしまう」というのは確かにその肉体に施されたプログラミングだ。今日の日付けでいうなら2023年6月7日、この記事がアップされるであろう17時ちょうどに私がスーパーの店員にブチギレているとするならば、それはそういう風にビッグバンの時にデザインされていたということになる。



では明日も明後日も私が近所のフードワンというスーパーで17時ちょうどに毎日毎日ブチギレなければならないのかといえばそういうわけではない。私たちには「未来を変える」とか「自由意志」とかいったものがあるのも事実であり、この肉体の表面的な入力を変えることができれば出力も変えることができる。



言い方を変えてみよう。「怒る」というのは水が並々に注がれたコップから水がこぼれてしまうようなものだ。「怒り」が水で、コップが「肉体」だ。すぐに怒ってしまう人というのはこのコップ(肉体)に水(怒り)がたくさん入っている人であり、それは「性格がいい」とか「性格が悪い」とかいったこととは関係がない。もちろん小さい頃から「絶対にあなたは怒ってはいけないよ」と厳しい条件付けを施されてきた人はコップから水があふれにくい。が、それは言わずもがな、コップの上の部分を無理やりガラスで接着して閉じてしまったような状態であり、中の水が減っているわけではない。つまりガラス瓶の中が水圧でパンパンになっているような状態だ。あとのことはご想像の通りで、「コップから水がちょろちょろあふれる」なんていう日本庭園よろしく風流なことが起きるはずもなく、爆弾のように「ボンッ」と弾け飛ぶだけだ。その時の威力は日本庭園のそれとは比較にならない。



こういった怒りを取り除くためのパワーストーンを近々紹介するつもりだということに関連づけてこの記事を書き始めたのだが、つまるところ、怒らないようにするためにパワーストーンなどによって「コップの中の水を減らす」とか、あるいは瞑想などによって「コップの上の部分のガラスで接着されてしまった部分を削り取る」といったことは自由意志で可能なのだ。ただラメッシが言っているのは「そういった怒らないようにするためのワークすらビッグバンの時に定められたエネルギーによるものだよね?」ということだ。だから究極的に言えば自由意志というものはないのだが、それは表面的な因果がないとか何もできないということではない。



おお…! 全く何も書くアイデアがなかった割にはうまく書けた気がする。例えでいうなら全裸で家を出て、「まあ服はユニクロで買えば大丈夫だろ」と考えるくらいの見切り発車だったのだが、無事著作権警察に見つかる前にユニクロにたどり着けたようだ。やはり警察というのはいつの時代も無能である。




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