昨日の記事を読んだ後にこの記事を読むとより理解が深まるかもしれない。というか、昨日貼った大乘住職のブログの記事と今回の記事を併せて編集してアップしようというアイデアが湧いたのだが、私が夢中になっている格ゲーの大会のトパンガワールドチャンピオンシップを見ていたせいで忘れていた。↓から本記事である。
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【1ページ目】
ティールス・バーンは起床した。お昼ご飯にマックを食べた。おいしかった。ちょっとマックシェイクを飲みすぎたかも。
【2ページ目】
お昼ご飯を食べたらう◯こが出そうになったのでトイレに行った。お腹痛いンゴ。ちょっと暑いし窓を開けておこう。
【3ページ目】
う◯こをしていたら気づけば夜だ。窓を開けていたせいか部屋の中に虫がいるからこれから殺そうと思っている。
…というめちゃくちゃ面白い3ページの本があるとしよう。ちなみにこの記事を書いている当日の私の出来事だ。
このおもしろ本を見ている私たちからすればそこに自由意志という問題は存在しない。ただこのおもしろ本の中で「ティールス・
バーン」がそういう風に行動しているというだけだ。ハリー・ポッターの本を読んでいてもわざわざ「なるほどハーマイオニーには自由意志があるなぁ」などとは考えないだろう。
そして因果関係も存在しない。お昼を食べたことと排便したことを結びつければ確かに因果はあるように見えるが、それはこのおもしろ本を外から読んでいる人には関係がない。
しかし本の中の「私=ティールス・バーン」からすれば自由意志もあるし因果関係もある。お昼を食べたからう◯こが出たし、う◯こをしていたから夜になったし、窓を開けていたから虫が入ってきた。
「神視点」とか「宇宙視点」というのはこの本の外に出ることだ。そして瞑想も然りである。瞑想とは、この本の中で起きているあらゆることをあるがままに観ること、距離をとって観ること、この物語に巻き込まれていないことを指している。そうすれば自然と神の視座につけるし、自由意志や因果の不在も見抜けるようになるというわけだ。
確かにティールス・バーンは「あっ今からう◯こしよっと」と自由意志を主張したり、「昼にマックシェイク飲みまくったから腹壊したくせぇわ」と因果関係を主張したりできる。が、この本を外から見れば「ティールス・バーンにそういうことが起こった」ということが観測できるだけであり、そこには自由意志も因果関係もない。そもそも本の外から見ているのだから、その中の登場人物が何と言おうが…、本の中で
ティールス・バーン『俺には自由意志がある! だから今から俺の意志でう◯こするためにトイレに行くんだ! うおおおお』
という著述があろうが、本の外の人からしてみれば「はえ〜ティールス・バーンは自由意志があると感じているんだな」という感想しかない。因果関係も同じで、
ティールス・バーン『マックシェイク飲みすぎたから腹壊した。やっぱりマックはクソ』
と本の中で因果を主張している人物がいても、「はえ〜この人はそういう風に思っているんだな」以上のことはない。
そしてある時にはティールス・バーンはう◯こをするのにもマックシェイクを飲むのにも飽き飽きし、ついには瞑想を始めるかもしれない。
ティールス・バーン『自由意志なんて幻想だったんや…! 瞑想したらどんどん自由意志がないことが理解できてきたぞ!』
なんて著述が本の中に追記されるかもしれない。そうして本の中で自由意志を感じたり、あるいは自由意志のなさに気付いたりするのだが、本の外にいる我々から冷静に観てみれば「なんかこいつ自由意志があるとかないとか、それをなくすとか言ってんぞw」という滑稽なことでしかないのだ。
だからどういうことか? というと、マックシェイクはあまり大量に飲まない方がいいということだ。なぜならばお腹を壊すからである。そう、本の中にいる私たちからすれば間違いなく因果関係がある…! 私は今日マックシェイクを飲みまくって腹を壊し、明日もマックシェイクを飲みまくっては腹を壊し、明後日も…と続けば人間の頭は「マックシェイクを飲みまくったら腹を壊すのか!」と思うようにできているのだ。だからマックシェイクは飲みすぎない方がいい。
が、究極的に言えば、マックシェイクを飲みすぎたからお腹を壊したのかどうかを知る術はない。なぜならそれはどこまで行っても「本の中でそのように書かれただけ」であり、その因果についてはその本の中の登場人物が知ることはできないからだ。だからつくづくOSHOも「なぜ? に囚われないようにしなさい」などと言うのだ。それに拘うよりも、ただその神秘を、なぜだかわからないがそのように起こるハプニングを楽しむのである。だから…私はマックシェイクを飲み続けるぞ…誰がかまうもんか?!


