悟りを求める人が、初めて教えを聴く





画像の引用は「著 ラメッシ・バルセカール『誰がかまうもんか!?』」から。著作権に触れないギリギリのレベルで貼り付けていく。つまり主従関係、こういったスクショを貼り付ける必要性を示す程度に何か書く。



探求は勝手に起こる。誰かの死を通してかもしれないし、人生に退屈したからかもしれないし、何か本を読んだからかもしれない。が、前回の記事でも書いたように、全ての肉体はその両親の遺伝子、生活環境、周囲にいる人間の影響…そういった外部要因によって形作られる。もちろんそこから出力される行動も外部要因に依るため、そこには微塵の責任も生じ得ない。ので、探求が起こるとか、瞑想するとか、師をインドまで探しに行くとか、精神世界の本を読み漁るとか、そういったこと全ても個人的行為者の存在なしにただ起こる。



ラメッシも「エゴと戦う」とか「エゴを受け入れる」などと言っているが、結局のところこれすら私たちの手中にはないのだ。手中ではなく神の手のひらの上で何もかもが行われている。だからどうするかって? だからどうしようもないのだ。とはいえ探求者は瞑想したり、師を探したり、本を読んだりするだろう。それをこれからも続けていくしかないのだ。結局のところ私たちは「やりたいようにやる」というのが限界であり、その背後で「これをやっているのは私ではなく神なのだ」という理解を頭の隅に留めておくくらいで十分である。




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