洗面器に水を張ってそこに顔面をつけ続ける。すると当然苦しさに耐え切れず酸素を欲し顔を上げる。
真理の探求というのもこういう類のものなのかもしれない。「もう真理だとか神だとか至福だとかいうものがないと自分は生きていられない」というぐらい苦しくなって初めて探求が始まる。
だから私は多くの人に探求者になって欲しいとは全く思わない。むしろそんなものにはなってほしくない。それは「水を張った洗面器に顔をつけ続ける苦しみをどうか味わわずに済んで欲しい」という願望だ。が、顔を上げたのにそこに酸素がないとその人も死んでしまうので、こうしてブログに色々書き残しているわけである。もちろん酸素というのは誰にとっても必要で、水を張った洗面器に顔をつけ続けないでもその恩恵は受けられる。が、それは心の底から、体の最奥部から欲したものではないだろう。なんとなく吸って、なんとなく吐いて、それで終わりだ。
結局欲しなければ始まらない。そして欲した人に与えられないとも思わない。何よりこれは神が始めた物語で、神が持った願望だ。これを叶えられないように計らうなんてのは神にとって馬鹿げた話である。
だから真理の探求を願った人間は神に預けて安心して道を歩んだらいいし、それ以外の人はまあなんとなく生きていたらいいのだ(適当)。まあ適当にならざるを得ないだろう、別に私は普通に生きる能力に関しては人類の遥か下の水準にあるのだから…。
とはいえそういった普通に生きる能力すら欠けているような私の肉体も神が生かすようしっかり計らってくれている。この30年もしっかりやってくれてきたし、何より今はとてつもなく幸せだ。世界全体を見渡せば、神に対して「よくもまあお前はこんなもの創ったけ」という思いが湧いてくるが、私個人の肉体に関してはこれ以上ないものを与えてくれている。いずれこれを書くことになるのかならないのか…まあ今の段階ではまだなんとも言えない。
すすんで水を張った洗面器に顔をつける必要はない。のほほんと生きれたらそれが幸福だ。とはいえこの地球を洗面器とするならば、世界全体の海の水位が上昇してみんな苦しんでいるような状況にある。ということで多くの人が真理だなんだとかいうものを求めざるを得ない状況にはあるのかもしれない。