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つい数日前、私は、樹木には水に対する一定の感受性があるということを知った。それを調査していた科学者は驚いた。その樹のまわりにはまったく水がなかったし、60メートル離れたところに一本の送水管が走っているだけだった。が、樹はその根をその送水管に向けて伸ばし、それを突き破り、その水を味わい、自らを養っていた。


科学者は、その理由がわからなかった。まわりには水はまったく見当たらなかったし、まさか樹が自分の根で送水管を壊して、そこから水を得ているとは思いもよらなかったからだ。彼は首をかしげた─、この樹は、どうやって60メートルも離れたところにある送水管を知ったのだろう? しかもその樹は、ほかのどこにも根を伸ばさずに、一直線にその送水管に向けて根を伸ばしていた。


樹木は水なしでは生きてゆけない。どうやら樹木にはある感受性、ある秘められた知識が備わっているに違いない。たとえその水がパイプのなかを走っていようと、60メートルも離れたところにあろうと、樹は水を見つけ出す。
(「空っぽの鏡 馬祖」OSHO p21.22)
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この樹は何もしていない。そもそもこの樹にはそういうプログラム…自分が生きるために必要な水を見つけ出すというプログラムが埋め込まれており、ただそのプログラム通りに水を見つけ出したというだけだ。


私たちに関しても同じである。何もしなければ…といっても坐禅してじっとしているのでも、死んだように横たわっているのでもなく、社会に後から埋め込まれたプログラムによって何もしなければ、私たちは私たちの「水」を見出す。


これが本来の引き寄せの法則だ。といってもこれは私たちが意図して願ったものを引き寄せられるわけではない。「お金持ちになりたい」「美人の恋人が欲しい」「ヒカキンみたいになりたい」「岸田総理みたいになりたい」、こういった個人的願望が叶えられることはない。あくまで叶えられるのは宇宙の願望、樹が水を見つけ出したのと同じように、私たちもそれぞれの水を得ることになる。


「何もしない」と言ってもただじっと黙って座っているのではない。何かしなければ生きていけないのは言わずもがなである。つまり「いかにして」ということになるが、私たちは社会によって与えられたプログラムではなく宇宙によって与えられたプログラムに従って動けばいいのだ。OSHOは社会によって与えられたプログラムに従って動くことを「活動」、宇宙によって与えられたプログラムに従って動くことを「行動」と呼んだ。


「活動」は今の人類のほぼ100%が従事しているパターンだ。まだ条件付けされる前の子供たち、及び極少数の大人を除けば全てこのパターンで動いている。いわば無意識であり、社会に与えられた教えを信じ込んでいる状態だ。医療、教育、政治、ありとあらゆるプログラムを仕込まれその通りに動く。もし外から「おい!そこのお前!」と言われればそれに反応する。


「行動」には意識がある。自分の肉体や周囲の状況に明確に気づいており、社会のプログラムによっては動かない。もちろんうまくやるために社会のルールに従って動くこともあるが、主体の意識がそれに気づいている。もし外から「おい!そこのお前!」と言われたらそれに感応する。社会のプログラムによる「反応」ではなく、この宇宙のプログラムによる、この宇宙の必要性を満たした「感応」だ。


「行動」とは瞑想だ。ゴータマ・ブッダが言ったように呼吸に気づいたり、歩いていることに気づいたり、思考に気づいたりしている。中心にある意識、本来の私は何もしておらず、ただこの宇宙に仕込まれたプログラム通りに動く肉体を観ている。これが老子の言う「無為の為」だ。


これは、瞑想の道は淡白な作業ではない。もちろん瞑想自体は淡白であるが、その道では途上で様々なものに出会うことができる。だってそうだろう、樹だって遠くにある送水管の水を見つけ出せたのだから、私たちだって私たちに必要なものを道の途上で得ることができるはずだ。


ちなみに下の講話は原題を見てみると「存在の詩」からの引用らしい。やはり良いことが書いてある。紛れもない名著である。


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https://www.osho.com/ja/read/featured-articles/body-dharma/the-disese-of-doing


するということの病気

 まず、活動の本質と、そこに隠された傾向を理解しなくてはならない。そうでなければどんなリラクゼーションも不可能だ。いくらあなたがそうしたいと思っても、自分の活動の本質を観察し、よく見て、本当に理解したことがなければ、リラックスすることはできないだろう。というのも、活動というのはシンプルな現象ではないからだ。

 多くの人がリラックスしたいと思っていて、リラックスできないでいる。リラクゼーションは花が開くようなもの、それを無理に起こすことはできない。あなたはその現象全体を理解しなくてはならない。――なぜあなたはそんなに活動的なのか、それほどまでに活動でいっぱいになっているのか、それにとり憑かれているのか。

 二つの言葉を覚えておきなさい。ひとつは行動、もうひとつは活動。行動は活動ではないし、活動は行動ではない。その性質はまったく正反対だ。行動というのは、状況がそれを必要とした時に、あなたは行動する、対応するということ。活動というのは状況にかかわりなく、対応でもない。あなたは内側でとても落ち着きがないので、状況は活動のための単なる口実にすぎないのだ。

 行動は静かなマインドからやってくる。――それは世界でもっとも美しいものだ。活動は落ち着きのないマインドからやってくる。――それはもっとも醜いもの。もっと行動するようにしなさい、そして活動がひとりでに落ちていくに任せなさい。変容はやがてやってくる。それには時間がかかるし、適当な時期というのもある。しかし急ぐ必要もない。

 さてあなたはもう、リラクゼーションの意味するところが理解できるだろう。それは、あなたの中に活動への衝動がない、ということだ。リラクゼーションは、死人のように横たわっていることではない。それに、死人のように横たわることなどできない、ただそのふりができるだけ。死人のように横たわるなんて、どうやってできる? あなたは生きているのだ、ただそのふりができるだけだ。リラクゼーションは、あなたに活動への衝動がまったくない時にやってくる。エネルギーは落ち着いていて、どこへ向かっても動いていない。ある状況が起こればあなたは行動する、ただそれだけだ。けれどもあなたは、活動するための口実を探しているのではない。あなたは自分自身に寛いでいる。リラクゼーションとは落ち着いていることだ。

 リラクゼーションとは身体だけのことではない、マインドだけのことではない。それはあなたの全存在に係わることだ。

 あなたは活動でいっぱいになっている。当然のことながら疲れ、消耗し、枯れきって、凍りついている。生命エネルギーは動いていない。あるのはただブロック、またブロック、またしてもブロック。そしてあなたが何かをする時は、ある種の狂気の中でやっている。当然、リラックスする必要が生じてくる。それで、リラクゼーションについての本が毎月たくさん書かれているのだが、リラクゼーションについての本を読んでリラックスできた人など、今まで一度も見たことがない! 彼は前よりもっと熱狂している。というのも、彼の人生すべての活動は未だ手つかずのままだからだ。活動的であることへの強迫観念はそこにある、病気はそこにある、そして彼はリラックスした状態にあるふりをして横たわっている。すべての混乱が内側にある、火山はすぐにでも爆発しそうだ、それなのに彼はリラックスしている、本の指示に従って。リラックスのやり方。

 あなたがリラックスする手助けをしてくれる本などない。――あなたが自分自身の内なる存在を読むのでないかぎり。そうすれば、リラクゼーションはすべきものではない。リラクゼーションとは、あるものの不在だ。それは活動の不在であって、行動しないということではない。

 何もしないように! どんなヨガの姿勢も必要ないし、身体をねじったり、ゆがめたりする必要もない。「何ひとつしないこと!」。活動しないことだけが必要なのだ。ではどうしたらそうなれるのだろう? それは理解することによってやってくる。

 すべきことはただひとつ、理解するということだ。あなたの活動を理解しなさい、すると突然、活動をしている最中に、もしあなたが気づくならば、それは止む。なぜそれをしているのかに気づくなら、その活動は止むだろう。そして、この止むということこそ、ティロパの意味するところだ。

 リラクゼーションというのは、この瞬間で満ち足りていること、それ以上に何かを求めたり望んだりすることなどできないことだ。何も求めるものはない、すでに充分すぎる、これ以上望むことなどできない。するとエネルギーはどこへも動いていかず、穏やかな水のプールになる。自分自身のエネルギーの中で、あなたは溶けていく。この瞬間がリラクゼーションだ。リラクゼーションは身体のものでもマインドのものでもない。リラクゼーションはトータルなものだ。それでブッダたちは言い続ける、「無欲になりなさい」、と。というのも、もし欲望があったなら、あなたはリラックスできないということを彼等は知っているからだ。

 リラクゼーションとは姿勢ではない。リラクゼーションはあなたのエネルギー全体の変容だ。

Osho, Tantra: The Supreme Understanding,  Talk  #4 
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