前回の記事に関連してそうなOSHOの言葉がツイッターで流れてきたので貼り付けておく。にしても管理人が私が書いた記事を読んだかのようなタイミングである。まあ大体こういうのはランダムに投稿されているのだろう…知らんけど。
光明を得たがっている者がいる--。それは人為的な目的地だ。私は、人が光明を得ることはないと言っているのではない。私は、それを目的地にしてはならないと言っているだけだ。人々は、本源に帰り着いて初めて光明を得る。自然になったとき、彼らは光明を得ている。
— OSHO bot (@osho_bot_jp) 2023年4月2日
自然になりなさいと言うとき、私はただこう言っている。”なる”ことを止め、”ある”ことのなかに落ち、くつろぎなさい。あなたはすでにそこにいる!
— OSHO bot (@osho_bot_jp) 2023年4月1日
自然な人とは光明を得た人だ。自然であるとは光明を得ていることだ。動物や樹や星と同じように自然であること、自分自身に何も押しつけないこと、人はいかにあるべきかという観念を持たないこと、それが光明を得ていることだ。光明を得るとは自然である状態を言う。それは達成のようなものではない。
— OSHO bot (@osho_bot_jp) 2023年4月1日
自然であるとは、ちょうど真中にあることだ。仏陀は、彼の道を”中道”と呼んだが、それは自然なものが両極端のちょうど真中にあるからだ。
— OSHO bot (@osho_bot_jp) 2023年4月1日
宗教は、神が存在するという信仰によって始まるのではない
— OSHO bot (@osho_bot_jp) 2023年4月1日
それは、生命が贈られるものであるという、
気づきから始まる
私たちは、生命が誰から贈られるのかは知らない--
それは探究を必要とする--
しかし、それが贈りものである、ということだけは
唯一確かなことだ
行為者、自我という現象、これが自然を失い、自然から離れてゆく。やがてあなたは、息苦しさを覚えはじめるほど遠くへ行ってしまう。あなたの存在に分裂症が生じるほど遠くへ行ってしまう。あなたの周辺は中心から離れてばらばらになりはじめる。それが回心の地点、宗教が的を射たものとなる地点だ。
— OSHO bot (@osho_bot_jp) 2023年4月1日
楽園は取り戻されて初めて存在する。自然の美や神秘は、あなたが家に帰りついて初めて現れる。あなたが自分の本性に背くとき、あなたが自分自身からもっとも遠ざかるとき、その日初めて帰還の旅が始まる。本性を渇望するようになるとき、それなくしては死んでしまいそうなとき、あなたは戻りはじめる。
— OSHO bot (@osho_bot_jp) 2023年4月1日
常に覚えておかねばならないことがある
— OSHO bot (@osho_bot_jp) 2023年4月1日
それは
あなたが存在から切り離されたものではない、ということだ
また、ただ覚えておくだけではなく、実験することだ
木の側に座り、その木とひとつになる
泳いでいる川とひとつになる
手をつないでいる相手とひとつになる
ゆっくりと、少しづつ
マインドから生きないこと
— OSHO bot (@osho_bot_jp) 2023年3月31日
さもなければ、あなたはつねに乗り遅れることになる
生はあなたやあなたのいわゆるマインドなど
けっして待ってはくれないからだ
マインドがいつも何か欠けていると感ずるのはそのためだ
生そのものを欠いているのだから無理もない
それもつねに--