iPhoneのSafariのタブを開きすぎていたので整理していたところ私が昨日書いたものに関するものを見つけた。ので、これをどうにか私が言ったことにできないだろうか。できないだろうな。
にしても美しい言葉を話す人である。私を弟子にしてくれたりしないだろうか。
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https://www.osho.com/ja/read/featured-books/yoga/when-you-act-as-it-comes-you-are-always-right

自然に起こるがままに行動するときは、いつでも正しい
Osho,自然に起こるがままでいることは、なぜ私の中にこれほど恐怖を生み出すのでしょうか。構造が何もないと、まさに死のように感じます。この恐怖を、私はどうすれば手放しに、迎え入れることに、喜びに変えることができるのでしょうか。
おそらく、あなたは、自分が再びもうひとつ別の構造を求めていることに気づいていないのかもしれない。自分が何を求めているのか意識できるように、私があなたの質問を読んでみよう。
「自然に起こるがままでいることは、なぜ私のなかにこれほど恐怖を生み出すのでしょうか」。それは、誰のなかにも恐怖を生み出す。というのも、自然に起こるがままでいることは、それが何であろうと、自分の行動に責任を負っているということだからだ。親から、教師から、教授、聖職者、指導者から与えられた条件づけを頼りに――自然に起こるがままでいるのではなく――自分の過去の条件づけから行動したら、恐怖はない。あなたは、自分が独りではないことを知っているからだ。あなたは、自分の行動が認められていることを知っている。
恐怖が生じるのは、自分は独りだということに気づき、訓練すべてに反している何かをやっている時だ。あなたは自分が反抗していることを知っている。自分の親を向こうに回そうとしている、人類が受け継いできたすべてのものを向こうに回そうとしている。過去の重荷は山のように大きく重く、まさにヒマラヤのようだが、自分はひじょうに小さな個人としか思えず、それを向こうに回すのは怖い。つぶされてしまうかもしれないのだ。
自然に起こるがままということは、その瞬間に行動しているということだ――反動ではなく、行動。それが、このふたつのことばのちがいだ。反動すると、それは自分の過去の積み重ねられた知識、体験から生じている。だが、応じると、それは自分の現在の意識から生じる純粋な行動だ――過去の記憶からではなく。これは、あなたの内にある、ふたつの異なった源だ。記憶は心地よい。というのも、みな同じ記憶を持っているために、誰もがあなたは正しいことをやっていると誉めてくれるからだ。だが、もしあなたが自分の力で行動したら、危険を冒していることになる。それは合わないだろう。まず間違いなく、あなたのまわりに築かれている構造には合わないだろう。だからこそ、恐怖が生じる。
だが、私はあなたに言おう、あなたがどういう状況にあることになるのか、何ひとつわかっていなかった者たちの奴隷になるよりは、恐怖で苦しんだほうがいい。彼らはあなたに固定観念を、問いへの答えを与えているが、その問いがあなたの人生でどういう形で生じてくることになるのか、何も知らないのだ。
自分が直面している状況に応じるためには、記憶ではなく、知性が必要だ。過去から受け継いできたものではなく、覚醒が必要だ。だから、たとえ恐怖が生じようとも――それは自然なことだが――その恐怖をかえりみず、自然に起こるがままでいようと決心するがいい。すぐに、こうした恐怖は消える。
それは、もっともっと、自然に起こるがままにあることから行動するということにすぎない。そうすれば、自分はひとりの個人であるということがさらにまとまり、しっかりしたものになり、過去があなたのまわりに掛けたすべての鎖から自由になる。恐怖は消える。が、それには少し時間がかかるだろう。もし恐怖に耳を貸したら、個人としての尊厳を獲得することはけっしてできない。
木々でさえも個としてのありようをもっている。動物はみな、自分の個としてのありようをもっている。人間が自分の個としてのありようを失ったのは、まさに恥ずべきことだ。だから、すべての恐怖をさしおいて、危険を冒すがいい。勇気を出し、自分の意識に従って行動するがいい。そうすれば、自然に起こるがままに行動している時は、いつでも自分は正しいということがすぐにわかる。あなたは状況に直接答えているからだ。
だが、あなたはたずねている――「構造が何もないなんて、まさに死のように感じます」。害はない。死ぬがいい! あなたの人生にたいした価値はない。死んだ者たち全員の囚われの身になるよりは、自然に起こるがままに死ぬほうがいい。少なくともあなたは、「私は、少なくともひとつの点で、すべての過去から、そして、宗教、国家、人種、肌の色というすべての牢獄から自由になった」と言うだけの尊厳を得る。
さらに、あなたはたずねている――「この恐怖を、私はどうすれば手放しに変えることができるのでしょうか」。わかるかね? 「どうすれば」とは、またしても自分の記憶に新しい構造を詰め込もうとしているということだ。だが、自然に起こるがままでありうる構造など、ひとつもない。次の瞬間に何が起こるのか、知ることはできない。明日が何をもたらすのか、思い描くことはできない。だから、どんな構造を築きあげても、どんな宿題をやっても、状況には当てはまらないことになる。
私はどんな宿題もけっしてしたことがない。学校、カレッジ、大学で、私は担任の教師、教授たち全員に、「私にはどんな宿題も絶対に出さないでほしい」ということを完全にはっきりさせた。すると、彼らは言った、「しかし、それは変だ。そんなことを言った者はこれまでひとりもいない」
私は言った、「誰かが言ったか言わなかったか、そんなことは私は気にしない。確かなのはひとつのことだけだ。あなたは私に答えてもかまわない、私に聞いてもかまわない、何でもしたいことをしてかまわない――が、私は自然に起こるがままでいるつもりだ。準備などしない」。宿題は準備だ。あなたはあらゆるものをすでに準備している。
あなたは、「この恐怖を、私はどうすれば手放しに変えることができるのでしょうか」とたずねるべきではない。というのも、私があなたに何を言っても、それはまたしてもあなたの構造になってしまうからだ。ただ単純でいるがいい。状況を見出したら、行動するがいい! 恐怖はわきにおいて、自然に起こるがままの反応を楽しむがいい。問題なのは数回だけで、あとは恐怖が消えているのがわかる。というのも、自然に起こるがままの反応は、すばらしい喜び、ハートがすばらしく開くこと、すばらしい新鮮さを与えてくれるからだ……まるでシャワーを浴びたばかりのような。だが、どんな方策も求めてはいけない――「自然に起こるがままでいるには、どうすればいいのか」――というのも、「どうすれば」とは、まさに構造のことだからだ。「どうすれば」とたずねてはいけない。やってみるがいい。何も知らずに、無垢なまま、状況に応じれば、そこから手放しの大いなる体験を学ぶことになる。そして、あなたは楽しむ。あらゆるたぐいの恐怖からの自由を達成したからだ。
あなたの恐怖とは何かね? 何を失う? 失うことができる唯一のものは、あなたの命だ。が、それはあなたのものではない。それは宇宙のものだ。いつの日か、あなたはそれを失うことになる。だから、どうだと言うのかね? 一週間は七日しかない。月曜日に命を落とそうが、あるいは火曜日に……だから、それは七日間という問題にすぎない。私は、一瞬の間も、何か失うものがあると思ったことなど一度もない。私には失うものは何もない。それが、自然に起こるがままに行動する自由を、どんな恐怖もなく行動し、言いたいことを何でも言う――世界のあらゆる政府を向こうに回し、世界のあらゆる宗教を向こうに回す、途方もない自由を、私に与えてくれた。それで、私のハートに恐怖の影が少しでも生じるとは思わない。
逆に、こうした愚かな者たちを叩けば叩くほど、私は楽しくなる。というのも、私から見れば、彼らは犯罪者だからだ。私から見れば、彼らは人類に起こった最大の災難だ。こうした者たちを恐れることはない。自分たちの墓に葬られている幽霊を恐れることはない。だが、誰もが、まさに最初から恐怖を注入されている。血が恐怖でいっぱいなのはそのためだ。この恐怖漬けが、こうした犯罪者たち全員が、あなたを支配し、あなたを破壊し、あなたに愛と至福の生を生きさせない助けになる。
私のサニヤシンに関するかぎり、恐怖が自分の存在の一部であってはならない。恐怖は、あなたの存在の暗い隅にある――。もっと光を当てるがいい。もっと意識を持ち込むがいい、もっと覚醒を持ち込むがいい。そうすれば、恐怖は消える。
恐れる何が、そこにあるかね? 笑う種はいくらでもあるが、恐れることは何もない。笑いこそ、何世紀にもわたって人類を虐待してきた者たちの頭を切り落とす、私たちの剣でなければならない。
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