眠れないので何かを書く。
瞑想の道は淡々としている。自分の肉体、感情、思考をただ見守る。それ以外に何もない。これが楽しいか?と聞かれれば私は別に楽しくはない。OSHOにせよ大乘住職にせよ「それを楽しめ」と言っていたが、私は瞑想自体が楽しいと思ったことはない。どうやら大乘住職はこれが楽しくて仕方なかったようなのだが、これは彼が瞑想に出会うまでの人生がそのようにさせたのだろう。罪悪感にまみれ、マインドに苦しまされ、ありとあらゆる方向を探した末に「ただあるがままに観る」というテクニックに辿り着いた。その圧力が彼に瞑想自体に喜びを感じさせることを助け、その圧力が彼が瞑想に出会ってからわずか3ヶ月で彼が悟りを得ることを助けたのかもしれない。
結局のところ事の発展はその圧力次第なのだ。別に瞑想というテクニックに限った話ではなく、様々なタイプの爆発の起こり方がある。有名どころだとエックハルト・トールとかだろうか、あの人なんかはまさにその苦しみの極地においてただ爆発した。そこにテクニックも何もなく、ただ個人でいること、苦しみと共にあること、自分というものを持ち堪えていくことにそれ以上耐えることができないという地点に勝手に導かれ勝手に爆発した。
じゃあ誰も彼もそのように苦しんで爆発したらええねん、と言いたいわけではない。そういった急速的な爆発の仕方ではなく漸次的な爆発の仕方が瞑想の道なのだ。とはいえそれは単調で面白味はなく、苦しみは減れど大きな喜びがあるわけではないので無味乾燥としている。
我々は喜びなしには生き延びられないのだ。遥か先に悟りだ至福だなどといったものが用意されているのかいないのか知らないが、やっぱり毎日楽しくないと楽しくない(語彙力不足)。ので、ある程度楽しく生きられるようになりそうなものを書いておこう。
つまるところは愛である。どんな形であれこの栄養がないと人は生きていけない。生きていけたとしても乾燥している。日なたに出て干からびているミミズのごとしである。
これを得るにはどうすればいいか。ただ与えればいいのだ。例のごとくこの宇宙は発したエネルギーがそのまま返ってくるので、ただそれを発したらいい。対象なんて気にしないことだ。知らないババアやジジイ、スーパーコンビニの店員、野良猫…ありとあらゆるものに愛を注げばいい。
私は意外とよく怖がられる。その反面わかる人には私の柔らかさがわかるのか、知らない人にも普通に声をかけられる。先日も自転車を直すためにエレベーターに自転車ごと乗り込んだのだが、その時乗り合わせたババアに「このエレベーターは大きくていいわねえ」なんて声をかけられた。私は「そうですね。大きくないと自転車入んないすからね」とありきたりの答えを返し、ババアは「大きいと助かるのよねえ」と言ったっきり会話は終わった。特に意味はない。
他にもお台場を1人で散歩していた時に中国人に「カンタム ドコデスカ?」と聞かれ「(カンタム…? ああ、ガンダムのことか)ちょっと場所わかんないので今から調べますね」とスマホでわざわざ調べてあげようとしたのに、少し時間がかかっただけで「オソイノデ モウイキマス」となぜか私がその場に取り残され虚無の感情を覚えさせられたエピソードなどがあったりするが、そういった話はここではしない。
とにもかくにも何らかの形で宇宙は愛を返してくれるようだ。こんな特異なエピソードでなくとも普通にスーパーの店員が親切にしてくれたり、ネット上で画面の前にいるどこかの誰かが親切にしてくれたりする。だからして、まずは自分が与えることだ。
そして何も期待しないことである。クソみたいな政権、教育、金銭状況が今の日本を支配している。その国でどうして喜び溢れて生きていることができようか。そんな状況で少し親切にされたぐらいでその親切さを返す気力もない人がほとんどなのだ。だから9割は返ってこないと思った方がいい。10人中1人でも返ってきたらその日は喜んで眠りについたらいいのである。
こういった栄養があれば淡々とした瞑想の道も歩むことが少しは楽になるであろう。瞑想なんてしなくてもこのメソッドは役に立つ。日々の暮らしに滋養を与えてくれるに違いない。眠くなってきたのでOSHOの講話を貼り付けておわりにしよう。
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https://www.osho.com/ja/read/featured-articles/other-myself/have-a-heart

ハートを持ちなさい!
私はここ何年か、程度の差はあるものの、自分の胸に痛みを経験してきました。私が愛するとき、私が溶けるときには、それは消えてなくなります……。
それは肉体的なものではない。それは明らかにリラクセーション、完全に溶けてしまうこと、自分をすっかり忘れてしまうことに関係している。そうした瞬間にそれが消えてしまうのだから、明らかにそれは肉体的なものではない。あなたはもっと多くの愛を与えることを学ばないといけない。これはあなただけの問題ではない。程度の差はあっても、それはだれもが抱えている問題だ。
だれもが愛されたい。それは間違った始まりだ。
それが始まるのは、子どもが、幼い子どもが愛することができず、なにも言うことができず、なにもすることができず、なにも与えることができないからだ。彼はもらうことしかできない。幼い子どもの愛の経験はもらうことだ。母親からもらい、父親からもらい、兄弟や姉妹からもらい、お客やよその人からもらう――とにかくいつももらっている。だから彼の無意識のなか深くに最初に定着する経験は、愛はもらわなければならないものだということだ。
しかし、だれもが子どもだったし、だれもが愛をもらいたいという同じ衝動を持っているために問題が生じてくる。ほかの形で生まれてくる人はいない。だからみんなが「愛をください」と求めるが、だれも与えてくれる人はいない。なぜなら、相手もまた同じように育てられてきたからだ。
生まれたときの偶然のできごとが、あなたの心のつねに変わらぬ支配的な状態でありつづけることのないよう、注意深く気をつけていないといけない。
愛を与えることはほんとうにすばらしい経験だ。なぜなら、そのとき、あなたは皇帝になるからだ。愛をもらうことはほんの小さな経験であり、それは乞食の経験だ。乞食でいてはいけない。少なくとも愛にかんするかぎり、皇帝でいなさい。なぜなら、それはあなたのなかの尽きることのない特質だからだ。あなたは好きなだけ与えつづけることができる。それがなくなってしまうかもしれないと心配することはない。ある日、ふと気がついてみると、「なんてことだ! もう愛が残っていないから、与えることができない」なんてことにはならない。
愛は分量ではない。それは特質だ、与えると増えるが、ため込むと死んでしまうという、ある特定のカテゴリーの特質なのだ。それにかんしてケチでいたら、それは死んでしまう。だから大いに浪費家になりなさい。だれに、などということを気にしてはいけない――それは、じつのところ、ケチな心の考えることだ。私はある人たちにある特質の愛を与える。あなたは自分がどれほど多く持っているかわかっていない……あなたは雨雲だ。
雨雲はどこに雨を降らそうかなどと考えたりしない。岩場にしようか、庭にしようか、海にしようか、などと。そんなことは問題ではない。雨雲は重荷を下ろしたい。この重荷を下ろすことがこの上もない解放になる。
だから第一の秘密は、それを求めてはいけないということ、そしてだれかに求められたら与ようなどと考えて、待っていてはいけないということだ。
ただ自分の愛をだれかに与えるがいい――見知らぬ人であっても。それはなにかとても価値のあるものを与えなければいけないということではない、ちょっと手を貸してやればそれで十分なのだ。24時間、自分のするあらゆることを愛とともにやりなさい、そうすればあなたのハートの痛みは消えていくだろう。そしてあなたがとても愛情に満ちているので、人びともあなたを愛することだろう。それは自然の法則だ。あなたは自分が与えたものを手に入れる。じつのところ、与えた以上のものを手に入れる。
与えることを学んだら、今まで一度もあなたをかえりみなかった人たち、今まで一度もあなたのことを気にかけなかった多くの人たちが、あなたに愛情深く接するようになるのを見いだすだろう。あなたの問題は、あなたは愛でいっぱいのハートを持っているのに、今までケチでいたということだ。その愛がハートの重荷になっている。ハートを花開かせるのではなく、あなたはそれを包み隠してきたので、たまたま愛の瞬間にあるときに、それが消えてなくなってしまうように感じる。だが、どうして一瞬だけなのか? あらゆる瞬間であってはどうしていけないのか?
それはたしかに言葉の本来の意味で「不健全(disease)」だ。「楽ではない(dis-ease)」という意味で。それは病気ではないから、医者が手助けすることはできない。もっともっと与えたがっているあなたのハートが緊張状態にあるにすぎない。おそらくあなたはほかの人よりも多くの愛を持っているのだろう、おそらくあなたは多くのものに恵まれていて、その多くのものからわざわざ大きな不幸をつくりだしているのだろう。それを分かち合いなさい、だれに与えるかなど気にしないで。
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