とまあ政治的なことを書きたかったわけではない。最近はどうやら私も政治的なことへの興味が薄れてきたようで(とはいっても毎日そういうツイートに目を通したりはしてるけど)、色々あって丸くなったらしい。いいことなのか悪いことなのかはわからないが穏やかではある。
憲法第九十七条に書いてあるように、私たちはみな自由を求めて生きてきた。探求者と探求者でない人間がいるように見えるが、全体から分離させたという神の悪戯があった時点から我々はみな神を求める探求者なのだ。
そこにはさまざまな過程が含まれる。この肉体で神に辿り着かなければまた次の肉体へ、その神を欲するエネルギーが流転する。表面上は「今の私」と「別の誰か」が探求しているように見えるが、根底にあるのはその神が神を欲しているエネルギーだけだ。そこに生まれ変わる誰かはいない。
そして今回のこの肉体で神を得るかどうかも既にプログラムされている。ので、それに関して私たちが心配してもどうしようもない。瞑想したりしなかったり、色んなテクニックに従事したりしなかったり…そういったことがただ起こる。
探求者は不安になるに違いない。今回のこの肉体で辿り着けるのか? 神を探していたら人生めちゃくちゃになったが大丈夫なのか? 現代の覚者の経歴を、あるいは先代の覚者たちの経歴を調べてみると割とめちゃくちゃな人が多い。細かいことは知らないが、それを求める人にはどうやら不可思議な力が働いていると思わざるを得ない。私自身不思議な縁に幾度となく生かされ、その度に自由を求める道へと戻された。
確か山田無文の臨済録だったか、その中で彼が「仏を求める人を生かさない仏があるわけないだろ」的なことを言っていて、それを読んだ当時金銭面的に非常に困窮していた私は救われた覚えがある。もちろんこの宇宙にいかなる法則性もなく何の脈絡もなく人は死ぬものだが、それでも自身を含めてこういった法を求める人たちを見るとそこには何か力を感じてしまう。
「金銭的に非常に困窮していた」と書くとさも今は金があるように聞こえるが今も全く金はない。そういった状況にもかかわらず1個4万近くするフルフィルメント瞑想のマントラは10個以上持っている。どうやったかといえば、ただこの肉体が強くそれを望み、あとは意識を灯火として、何事もこの留意をもとに行動しただけである。その後のことは全て宇宙が面倒を見た。
引き寄せの法則っぽいがそういうわけでもない。そもそも何を望むかをコントロールしていないし、その後の全てもコントロールしていない。その全てを意識に、瞑想に、宇宙に、神に委ねてしまった。「もしそれで死んだらどうするつもりだったのか」と問われればそれで死ぬまでだ。別にこれは強い決意が必要だったというわけではなく、そもそも金銭的に終わっており頼るものもないのでせいぜい意識にすがることくらいしかできなかったのだ。なんなら神に「殺すなら 早くしてくれ ホトトギス」といった形でこの苦しみを終わらせてくれることすら望んでいた。
が、結果は真逆であった。今思えば不可思議な縁しかなかったし、今でもその縁は新たに起こり続けている。この先新たな探求者が増えるかもしれない。そしてそこには多くの苦しみが付きまとうであろう。が、もし心の底から神を願い、本当にそれだけを求めるエネルギーがあるなら私は「あなたなら大丈夫だ」と言いたい。それは単なる励ましであろうが、結局のところ探求者に必要なのは励ましだけだ。私が大乘住職のもとを尋ねて瞑想に関するテクニックについて質問のやり取りをしたのはせいぜい最初の1時間くらいであり、あとの数100時間はくだらない世間話、私のくだらない形而上学的な質問、そして「大丈夫だ」という大乘住職の励ましだけだ。
OSHOの初期の瞑想キャンプの講話「ディヤン・スートラ」の冒頭にもあるが、この神を求める衝動があること自体が恩寵であり、祝福であり、何ならOSHOは「それ自体が光明を得ることよりも重要だ」とすら話している。何度も書いていることではあるがこの肉体はプログラム通りにしか動かず、神を求める衝動が沸いた個体にはその先の全てのエネルギーが内在されている。だから探求者に限っては何の心配もいらないのだ。探求者じゃない人はどうかって? 別に神を求めてるわけでも何でもないんだから神については何も心配する必要ないだろ😡
