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パラレルに
ホトケと凡夫の人生よ
なんと面倒 なんと贅沢

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起こることは決まっているという人がいる。



未来は我々の手の内にあり自由意志があるという人がいる。



瞑想するとより善い人生になるという人がいる。



果たしてどれが正解だろうか?



まず私が殺人衝動を覚え、人を殺そうとしているところからスタートしよう(こわ)。



無意識であれば、非瞑想的な状態であればそのまま人を殺すだろう。殺してしまった後に「あれ、覚えていない。こんなはずじゃなかった」と、ふと今この瞬間に帰ってくる。これが凡夫の人生である。世間で盲目的にワクチンを打ったり、マスクをつけたり、寿司を舐めたりするのはこの無意識さゆえである。



意識的であれば、瞑想的な状態であれば、まずその殺人衝動があることに今ここで気づく。そしてそれを見守る。怒りの感情、その人の顔のイメージ、殺したらどうなるか、あるいは死体の始末の仕方まで考えているかもしれない。が、その感情や想念に気づいており中心は冷めているので、その熱に振り回されることがない。多くの場合はここでリスクリターンを考えて殺すことをやめるであろうが、その先でも同じことだ。凶器を買いに行く自分の身体を見守り、足がつかないための変装アイテムを身につけるのを見守る。そこに意識が、瞑想があるなら「自分は何をやっているんだろう」と今この瞬間に戻ることができる。この地球上の数十億人は自分が何をやっているかわかっていない。2000年前に十字架に磔にされたおじさんも同じことを言っていたような気はする。



意識、瞑想はこの宇宙本来の働きだ。かといってそこに善悪があるわけではないので、その働きによって殺しが起こらない、とは私は言わない。今日もどこかで動物が殺し殺され、随分と昔には恐竜が絶滅した。人間の頭がこの宇宙に対して善いか悪いかなんて判断はつかないものの、私たちの頭から見ても自然界というのは独特の優美さがある。この優美さが意識には、瞑想には備わっている。



だから瞑想をすればより善い生になるというのはある一面では本当だ。そこには社会的な善悪、金持ちだから良い、お金がないから悪い、有名だから良い、無名だから悪いといったこととは無関係に優美な生がある。とはいえ動植物たちと同じような優美さなので、社会の観念に汚染された多くの人にとってこれは魅力的には映らない。



「なるほど瞑想的でいれば殺人をせずに済むのか!」と早合点をしているそこの奥さんは少し話を聞いてほしい。確かに殺人衝動を覚えた時点で「瞑想的になるか、非瞑想的になるか」を選ぶ自由意志があるように見える。そしてその結果は上に記したように全く違う。が、この「瞑想的になるか、非瞑想的になるか」を私たち個人が選ぶことはできない。宇宙の始まりから動植物たちが自然に、勝手にプログラム通りに動いていたのと同じように、殺人衝動を覚えた人に瞑想が起こるか起こらないかもプログラムされている。つまり手の内にない。



かといって「瞑想をしよう!と推奨しない」ということではない。私たちは自由意志があるように感じており、この生がどのようにプログラムされているかを知らない。かつ「瞑想によってより善い生になる」ということを知っているので、こうやって吹聴することによって結果的にこの宇宙に瞑想が起こるならそれに越したことはないのだ。



パラレルに
ホトケと凡夫の人生よ
なんと面倒 なんと贅沢



だから瞑想をお勧めする。ホトケの人生になり得るからだ。かといって瞑想が起こらない人に何か思うこともない。そのようにプログラムされているからだ。また、瞑想を始めたのに坐っていても無意識なってしまう人や、頑張っているのに日中も今ここにいられない人にはただただ励ましを与える。それだってそのようにプログラムされただけなのだから。



善いものである意識と悪いものである無意識が混在しており、そこには二重の世界線がある。現在の地球は後者の方だろう。かといって「あーあ神様! こんな面倒くさいなら善いものだけくれたらよかったのになぁ!」とずん飯尾のギャグのようなことを考えることもない。瞑想を始めたばかりの頃はずん飯尾のようなことも思っていたが、瞑想をすればするほど「あれ、この善いもの、意識、自然だけが宇宙の始まりからもし繰り返されたとして、それって何がおもろいんや?」という感覚が強くなる。つまりこの無意識とか、非瞑想的とか、自然でないというのは面白さの最大の要因であり、これがなければ「絶対に最後まで澱みなく連鎖することが確定しているぷよぷよをただ眺めているだけ」みたいなことになるのだ。



多くの人にとってそれは面白くないだろう。「なんか連鎖したりするし、止まったりするし、またふとした瞬間に連鎖が立て続けに起こったりする」のが一番面白いだろう。かといって全く連鎖せずに、なんの美しさもなくぶつ切りにぷよがひたすら積み上げられているのを見るのは息苦しくなるだろう。画面もいっぱいになるし。今の人類はこのような状況にあり、ぷよが画面いっぱいになったところで苦しくなるとどうにかこうにか2連鎖だけするということを繰り返しているのかもしれない。



ありとあらゆるストレス発散はこんな感じのものだろう。サウナ、ジム、ランニング、ヨガ…こういったことを通じて人は本来の自然な姿に一時的に戻る。それによってぷよが消え、その人本来の動きを取り戻すというわけだ。自然に戻るゆえに得てしてこういったストレス発散というのは気持ちが良い。



まあだからといって身体からストレスを全て取り除いたから自然な生になる、ということが言いたいのでもない。あくまで方便である。毎日のようにジムに行っているバイタリティ溢れるエリートサラリーマンを見ればわかるだろう、彼らは身体にストレスを抱えておらず生命力に満ちているように見えるのに何故か息苦しそうだ。ストレス、カルマの解消を全面に押し出すタイプの人もいるが、それが全てではないことも書き記しておく。とはいっても「それが全てだ!」と言うことによってその方便が役立つ人がいるというのもまた事実である。



とにかく瞑想は善いものだ、少なからず私にとっては。この宇宙がこの肉体にどれだけのものを用意しているのか「おおん!?」と穿った目で見ていたのだが、まさに私が欲しかったものを与えてくれている。今のところは文句のつけようがない。サンキュー宇宙、フォーエバー宇宙。




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