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ボンノウ ボンノウ ボン ボンノウ
ちょいとココロを覗いてみれば
怒り悲しみ 貪欲嫉妬
劣等感に優越感
絶望感に罪悪感
数えてみれば限りない
ちょいとイジって治そとするが
治そと 治そと やってみりゃ
ああ こりゃダメだと絶望感
性根を据えてガンバって
ボンノウ抑えてみてみても
やっぱり 結局 絶望よ
望みのないことわかるまで
徹底的にやってみな
徹底 徹底 徹底的に
精魂尽くしてやってみりゃ
こいつあムリだとホントにワカる
ホントにムリだと分かればワカる
その時ヒカリぴかぴかと
ヒカリぴかぴか差してくる
瞑想しててよかったね
ご縁があってよかったね
弥陀の計らい感激至極
ホントに和尚のおかげです
ありがと ありがと ありがとね
ありがとさまさま うれしいな
ボンノウ”わたし”と関係ない
わたしはボンノウみているモノよ
これがアミダのヒカリとや
親鸞さんにもお世話になって
いつもこのこと思いだす
あなたもずーっとみていたことを
あなた自身のココロをみてた
徹底的にみていたおかげ
おかげ おかげで気がついた
おかげ おかげで救われた
ねんぶつしているアミダのワタシ
ナムと言ってるアミダのワタシ
口からアミダの声がする
ワタシの口からアミダが歌う
気がつきゃ身体もアミダさん
自在に踊るアミダさん
ワタシはアミダ アミダはワタシ
なんまんだぶが踊ってる
なんまんだぶが歌ってる
そのうちナムもアミダも消えて
これがホントのなんまんだぶつ
これがホントの
静寂 安穏 極楽 三昧
ニルバーナはここにある
kuuhaku

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私が世話になっている大乘住職のブログのコピペである。
そもそもなぜ私が真理だ、神だ、仏だ、永遠だのを求め始めたのかといえば大した理由はない。ゴータマ・ブッダのように自分の老いや死を痛感して、それで刹那のものには価値を感じなくなった…的な高尚な理由はない。
私は幸せになりたかった。喜びを得たかった。探求が始まったのは高校生くらいの時であったが、毎日毎日「いわゆる幸せな生活」を送っていたにも関わらずなぜか幸せを全く感じられず、どこか虚無な毎日を繰り返していた。時は経ち大学生になり彼女ができたものの、そこにあったのもやはり虚無感であった。そんな虚無野郎は振られて当然であり、振られたことで更なる虚無感が積み重なる。聞けば大乘住職も私と同じ年齢の時に大失恋をして探求に更なる意欲を燃やしたらしく、どうやらこんなところでも私と似ているところがあるらしい。
虚無感で毎日家の天井を朝から晩まで見る作業をしていた大学の春休み、その時に大乘住職のホームページを発見する。今とはだいぶ形式も違い、今では掲載されていない記事もたくさんあった。彼が世話になっていたアサンガというインド人に関する記事がたくさんあったのもそうなのだが、その中の一つに「理由なき喜び」というものがあった。そこに書かれていた文章がまさに当時の私が欲していたもので、もうこれしかないということで即座にメールした。
真偽はともかくとして世間にはたくさんの覚者がいる。が、それらの人が私を惹きつけなかったのはそこに「喜び」がなかったからなのだろう。私がOSHOに惹きつけられたのも彼の「至福」という言葉のエサにつられたからに違いない。
こういった法悦おじさんはそんなにたくさんいるわけではないと思う。大乘住職には悪いが、探求者は徹底的にこういう人を使ったらいいのだ。まあそもそもこんなことを言ったって彼のもとに人が殺到することもないから何も問題はない。いつ彼に会いに行っても「いや〜久しぶりにこういう話するけどたのしいね〜」と言っているからだ。それに彼はどうやらこういう話をするのが好きなようなので、真理やら瞑想やらに関して聞きたいことがあればアホみたいに聞いたらいいのではと思う。
瞑想や信頼だけが私たちを導くのではない。瞑想しないこと、信頼しないこと、テレビ、漫画、アニメ、床の木目、ワクチン、コオロギ…ありとあらゆるものが私たちを自然な道、タオに戻そうと計らっている。しかも、タオは無味乾燥としていて淡々としていて何の喜びももたらさないといった類のものではなく、間違いなく個々の肉体に喜びをもたらそうと計らっている。私自身瞑想も信頼も頼りにしているが、私をタオに押し戻そうとする力はそんなこととは関係なく作用していた。その時々で必要な物資、環境、人…ありとあらゆる必要性が満たされた。それゆえ私は今生きていて楽しい。私は「こんなんならそもそも産まれてこなければよかったのにな」という虚無思想が根底にあるタイプなのだが、そんな私ですら生きているありがたさを感じるのだから存在は相当なものを私に与えているのだろう。
ただ少しだけ神を信頼してやるだけでいいのだ。そいつはあらゆる苦痛を私たちに与えてくるが、どうやらそいつには私たちを幸せにする計画があるということ、そしてその計画は少なからずそいつの範疇では完璧にやるつもりがあるということだ。だから愚かな計画に感じてもどうか許してやってくれ、彼はゴリラなんだ。

