先日大乘住職のお寺に遊びに行った。電車で往復1000円ほどである。おまけに住職は私が甘いもの好きであるのを把握しており、檀家さんがお供物としてくれる甘い和菓子を私に餌としてくれる。コスパ最強である。あと緑茶もちゃんとうまい。



何を話したかという記憶はほぼない(やば)。ああ、何度も繰り返し言われたのは…これが恩寵であり、祝福であり、恵まれているということだったか。



これというのは瞑想、意識があるということだ。ではだからといってこれから瞑想のよさを延々と書き連ねていくか? というとそういうわけでもない。むしろ逆だ。私が今持っている感覚は…どっちでもいい。



もちろん、大乘住職も先日言っていたことではあるのだが、この世界には「宇宙本来の自然な動き」と「エゴによる動き」が同時並行的にあるのも事実だ。だから「よりよくする」、「もっと瞑想的に生きてより自然な生を目指す」のも何ら間違いではない。が、それは我々にコントロールできることではない。瞑想というのを知識として知り、実践し、さらに日常的に瞑想を軸として生きる…という人も稀に現れるであろうが、そういう人はただ「ありがてえなあ」と思いながら生きたらいいのだ。それが起きない人にそれが起こるよう促進させる義務もないし、瞑想を始めた人に「もっと頑張ろう」と言う必要もない。とはいえ瞑想のよさは知っているので、こうやって文章として残したものを誰かが読んで「ふーん、瞑想してみようかな」と思うことも全く問題ない。ただただ自然の計らいがあるのみである。



まあそういったわけで自然崇拝者であるわけなのだが、それでも世間で個人が苦しんでいるニュースを見ると胸が痛むわけだ。ニュースを見ない私ですら「さすがに?」と思えるようなニュースが小耳に挟まれるので、本当に世間全体を見渡すとそれこそ地獄なのだろう。そういった人たちに「よし! お前ら瞑想すっぞ!」などと言うつもりは毛頭ない。既に記したようにそれが起こらない人には起こらないし、何なら私のように瞑想を知識として知り日常的に実践していても非瞑想的になり苦しみに巻き込まれることも多々あるからだ。つまり…それを情報の一つとして与えることは有益だが、それが万能であるように吹聴して実践を促すのは有益ではない。



では何を勧めるかといえば、苦しみを個人の努力抜きに取り除く力がある類のものだ。私が知っている限りではパワーストーンとヒーリングミュージックだ。安価で繰り返し使えて強い意志を特に必要としない。



中でも「本当に今しんどいからこの苦しみを即座にできるだけ迅速に取り除いてくれ」といった要求に応えられるのはこれである。



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多分貼るのは3回目くらいになる気がするが、私が今書いているということはその必要性がこの宇宙にとってあるのだろう。ちなみに深いところには作用しないのでマニアックな方はこちらの2曲目、「TAM TARE TUTTARE」を使うといい。



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この世界は残酷である。自分に正直でなければないほど苦労し、摩擦が起こり、ストレスを抱えるわけだが、果たして子供たちはそれに関してどうしようがあるというのか。まあ大人も大して変わらないのだが、その外部的な「どうしようもなさ」が圧力となり人が内側を観るということもあり得る…という話も大乘住職はしていた。



自分に正直になるといえば聞こえは簡単だが一番勇気が必要なことでもある。私自身は大した能力を持ち合わせていないけれども、この勇気に関してだけは自信がある。一度自殺をしかけたぐらいのメンタルの持ち主ではあるものの、だからこそ「まあどうなってもええか…」ぐらいの命を蔑ろにする精神が育まれたともいえる。現代でも多くの人が自殺に赴いており命を蔑ろにしているわけであるが、同じ命を蔑ろにする方向なら法に触れない範囲でできるだけ周りを頼りにする、悪い言い方をすれば「できるだけ迷惑をかけて」生きてもいいのではないかと思っている。私自身がそうしたし、それでも刑務所の外でこうやって普通に暮らしてるのだから案外なんとかなったりするのかもしれない。




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