私はここ1年くらい格闘ゲームばかり見ている。主にストリートファイター5というゲームだ。



もちろんこのゲーム自体に魅力も感じているのだが、この界隈の人たちはなぜか私は親しみを感じる。ということは、まあ傲慢な言い方ではあるのだが、私にそういった感覚を抱かせるということはそれだけそこに知性があるということだ。



で、長らくこの知性の要因はなんであろうか、と時たま数秒思惟したりしていた。「ゲーセンの文化の影響か?」「なぜか自分がミスをすると相手に『ごめーん』と謝る謎の文化の影響か?」「この界隈の中心になるような人物に特別な影響力があったのか?」などと考えたりしていたのだが、多分そのどれでもない。



私が達した結論はこのゲーム特有の「ヒット確認」というものだ。ヒット確認というのは、例えば相手にパンチとキックのコンボを当てたいとしよう。その際にパンチがガードされたら何もせず、パンチがヒットしたのを確認したらキックを出す、というものだ。なぜわざわざそんなことが必要なのかといえば、ガードの上からキックを打ってしまうと隙ができてしまい相手から反撃を受けるので、相手がガードできなかった時だけを確認してキックを打つ必要があるのだ。



とまあ何を言っているかを理解する必要は1ミリもないのだが、結局のところ極度の集中力を0.2秒未満のレベルで何度も発揮する必要があるということだ。もちろん他のスポーツにも瞬間的な集中力は必要不可欠であるが、ここまでのものはなかなか無いのではないであろうか。



はじめ私はゲーム特有の何かがあると睨んでいたのだが、他のeスポーツ界隈の人間を見てもそこまで魅力も知性も感じない。多分今この記事を書いているのは、ついさっきまでスマブラというゲームの大会を見ていたことに起因しているのだろう。このゲームも格闘ゲームの一種ではあるのだが、恐らくは事細かに攻撃が当たったかどうかを確認する類のものではない。そもそものゲームスピードがストリートファイター5と比べて桁違いに早く、ストリートファイター5ほどもっさりしていてかつ集中力を要するゲームというのはあまりなさそうだ。



かといってみんながみんなストリートファイター5をやる必要はない。なにせ6月にはストリートファイター6の発売が控えているし、世界最大の大会は既に終わってしまった。今はかろうじて残り香が残っているくらいだ。



こういった「いまここ」の有名どころでは武道、剣道、弓道、茶道といったものがある。私も一応学校は行っていたし、何なら剣道の授業がある特殊な学校に行っていたのでその道の知り合いは多かった。が、そこにあまり知性を感じたことがない要因というのは、結局のところ「まあ多少は集中せず無意識になっていてもなんとかなるから」なのだろう。



無明庵EOが、仏教僧の気づきとかOSHOの観照とかに関して、「結局細分化して見てみると気づいてない瞬間も結構あるわけで、気づき続けるなんてのも到底不可能では?」なんてことを書いていた記憶があるが、それはまさにその通りなのだ。もちろん気づいている時間も大事なことではあるのだが、その強烈さというのがそれ以上に大切なのかもしれない。



結局何が言いたいかといえば特に言いたいことはない。スマブラの大会を見て書きたくなっただけだ。が、ゲームの一つで知性を養うことができるのであれば、ありとあらゆる方法で「いまここ」をプレイヤーに思い出させて知性を養わせるというのも不可能ではないということだ。仏教系の荒業や禅師の奇行などなくても、手元でピコピコさせてたら知性的な人間が生み出せた、なんて未来もいずれ訪れるかもしれないという話だ。




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