カルマは肉体と精神の次元に属している。何だか複雑そうな話だが、早い話がスーパーボールを手から落としたら手の位置まで戻ってくるというだけの話だ。



その辺の知らないおじさんを怒鳴りつけてみるとしよう。すると間違いなく同じ程度の反撃を受けるだろう。こうやって即時的にエネルギーが解消されればカルマというものは蓄積されない。が、もしそのおじさんが我慢強ければそのエネルギーは肉体と精神に蓄積される。そのエネルギーがそのまま別の人や物に発散されるかもしれないし、あるいは蓄積に蓄積を重ねて一度に発散されるかもしれない。



とにもかくにも人にはカルマというものがつきものだ。私が世話になっている大乘住職も新興宗教に属していたことに起因して大きな罪悪感を抱え、そのことも理由の一つとして真理の探求に赴いたわけでもあるが、やがて一つの理解が救済する。それは「この私は肉体でも精神でもないので何一つカルマを抱えていないし、それを解消するよう努力する必要もない」というものだ。



が、依然として肉体と精神は色々なエネルギーを抱えているのは事実であり、それを解消する必要性がある。皆さんも過去に為した罪のようなものが巡り巡って自分に返ってきた経験があるかもしれない。私も例に漏れずそういったエネルギーが返ってくることがあり絶賛苦しんでいたりする。しかも先ほどの怒鳴りつけたおじさんのようにそのエネルギーがすぐ解消されるのならまだいいのだが、現実ではありとあらゆる罪をありとあらゆる時間軸でありとあらゆる場所に撒き散らしているゆえに、それが都合よく返ってくるということもまれである。分散されてエネルギーが返ってくるうちにそのエネルギーを解消できればいいのだが、解消できずに溜め込むと時に人は膨大なエネルギーの影響を一度に受ける。



で、どうすればそのエネルギーを解消できるかといえば、現実の事象の一つ一つに自然に、タオに沿って対応するしかない。私たちが不自然であるゆえに、タオに反した生き方をしてきたがために歪みが、摩擦が、抑圧が生じたのだ。現実に対して正直になり、真摯に、瞑想的に対応するしかない。私自身も人生で様々な罪を犯してきた覚えがある。もちろん(?)それは法には反していないが、タオに反していたこと、自分自身に対して、他人に対して正直でなかった覚えがあるのだ。



「あれ!? これ進研ゼミでやったことある!」ではないが、自分の人生を振り返ってみるのも現在の問題に対して応じるのに良い選択である。もちろんエネルギーの作用なんて未知の部分が大半であるが、自分が過去どんなエネルギーを発し、今どんなエネルギーが返ってきているかを鑑みるのは問題解決の参考になるだろう。



まあとはいっても最後に頼りになるのは自分自身、ゴータマ・ブッダの言う「自明灯」だ。いわば意識を、瞑想を頼りに行動して生きていくことなのだが、これだけは誰にでもおすすめできる。私の人生にあれやこれやする神は嫌いだが、私の肉体を導いてくれるこの意識には感謝しかない。この意識からもたらされる行動というのは論理を越えている。本当に訳のわからない行動をするし、本当にこれで大丈夫なのか? という行動を繰り返すのだが、その時に先ほどあげた過去の自分が発したエネルギーに関して省みることは助けになるだろう。「いや絶対やばいやろ…」から「まあもしかしたら平気かもしれへんな…」くらいにはなることを保証する。



論理はいつも問題をつくりだす。これは到底解決不可能だ、と私もよく思うのだが、その時には常に意識にすがる。神と意識という言葉で何が違うのか私もよくわからないが、とにかくお祈り状態だ。「頼むから神様どうにかしてくれ」である。そうやって嫌いな神に祈りを捧げて、あとはいつものごとく意識を灯として生きていくだけだ。正直私の肉体はかなり貧弱であり、頭もFラン大学中退程度の脳みそなのではあるが、これだけで私は生き抜いてこれた…それもそこそこ楽しく。



これから先人類は、というか個々人は大きな摩擦を抱えて生きていくことになるだろう。その時に論理に頼ればまた同じ沼に深く入っていくし、意識に頼れば蓮の花が水面から咲く。おお、なんかうまいこと言った感で終われてよかった…!




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