OSHOの「バウルの愛の歌」を読んでいる。
探求には瞑想の道、信頼の道、愛の道がある。私は今まで愛の道に関してあまり詳しくなかったが、読んでみるとなるほどそうかという感じだ。
私も年頃の男の子なので人を愛することもあるが、まあ苦しい道である。バウルたちが言っているように、相手に服従し、自分を失い、明け渡さなければならない。もし相手がこうだったら? 裏切られたら? といったあらゆる疑いを内包し、たとえその先が暗闇だったとしても、「オーケー、あなたが暗闇に送り込むのなら私は行きましょう」と言わなければならない。
これは愛する人であれマスターであれ同じだ。現代でマスターに明け渡すような環境があるか定かではないが、なんにせよ自分の全てを明け渡すということだ。有名どころだと老子のもとについた荘子がいるが、彼は30年近く老子のそばにただ居続けて、老子の言うことを聞き続けた。
信頼と愛は似通っているが、個人的な印象では愛の方がよりめちゃくちゃだ。信頼はある程度自己をセーブし、「まあここからここまでは信頼するよ」と何がしかの保証を携えている感があるが、愛はまず全てを差し出さなければならない。だから非常に困難である。
現代でこの道を歩める人がいるかは知らない。が、逆側からの道である瞑想の道を通ってきた人ならば愛もまた容易いであろう。そこに苦しみはつきものであるが、自分の中にある衝動に対して、「蓮の花の蜜」を見つける蜂のごとく信頼が湧いてくる。この衝動が宇宙由来の自然なものであり、その衝動がそれ自身の必要性を満たすために働くことを知っているので、おおよそ一般の人よりは愛もまた容易いはずだ。
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乞食のごとき路傍の人の
瞳に気高き光あらば
彼もまた一人のバウル
エクターラと呼ばれる一本弦の楽器と小太鼓だけを携えて、インドのベンガル地方をさすらう風狂の吟遊詩人たち─いかなる宗教にも属さず、ただ歌い、踊り、自在であることによってアダール・マヌシュ(本質的人間)に至ろうとする彼らを、人々はバウル(気違い)と呼ぶ。彼らの即興詩、愛の歌、輝くばかりの生命の讃歌が、ラジニーシという増幅装置を通って天地に谺し、あなたの内奥の琴線を共振させる。
(表紙の裏)
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まず第一に、愛は、唯一愛することでしか知ることはできない。
愛はそれに関する知的な討論によって理解できるものではない。愛は理論ではない。もし、あなたがそれから理論をつくりだそうとしたら、それは不可解なままでありつづける。それがバウルの第一の立脚点だ。ものごとには、ただそれを為すことによってしか、それであることによってしか、知ることのできないものがある。
(p28)
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それは大いなる冒険だ。なぜなら、誰かを愛するとき、あなたは自分自身を失いはじめる。誰かを愛するということは、エゴを失うことだ。誰かを愛するということは、失われてゆくことだ。誰かを愛するということは、自分を支配する力を誰かに与えることだ。誰かを愛するということは、所有されることだ。誰かを愛するという意味は、自分を明け渡すということだ。
……服従こそ知識の秘密……
……なぜなら、バウルにとって、愛だけが唯一の知識だからだ。
あなたはヴェーダを読むことはできる。そこに服従の必要はない、自分を明け渡す必要はない。あなたは聖書を読むことはできる。そこに明け渡しの必要はない。あなたは非常に練達してくる。非常に巧みだ。非常に博学だ。しかし明け渡しする必要はない。
もし、明け渡しする必要がなければ、バウルにとって、それは知識ではない。
バウルの基準とはこれだ。
つまり、なにかが明け渡しを要求するとき、ただそのときにのみ、本当の知識の可能性があるということだ。それ以外は駄目だ。
(p30)
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では明け渡しとはなんだろう?
明け渡しの意味はエゴを明け渡すことだ。明け渡しの意味はあなたが知るすべてを明け渡すことだ。明け渡しの意味はあなたの知識を、あなたのマインドを、あなたの知性を明け渡すことだ。明け渡しとは自殺だ。過去の自殺だ。
(p32)
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そうだ、服従が知識の秘密だ。
明け渡しが知識の秘密だ。それは知的な努力ではなく、全的な服従だ。自己の溶解だ。
だからこそ、バウルは愛に関してより多く、知識に関してはより少なく語るのだ。なぜなら、この世で、愛は、愛する以外に他のどんな方法をもってしても達成することのできない唯一の事柄だからだ。
(p36)
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だからこそ、勇気がいる。あなたは暗闇の中に進んでゆかなければならない。地図はなく、誰一人ガイドもなく、松明さえない。あなたは、自分がどこを進んでいるのか知ることもなく、正しい進路をとっているかどうかも知らず、自分が道を見つけるのか、それとも溝に落ちて永遠に迷うことになるのかも知らずに、ただ闇の中を進んでゆかなければならない。
(p38)
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だからこそ信頼が必要だ。“シュラッダー shraddha”だ。もし、あなたがある人を信頼したら、あなたは言う。
「オーケー、あなたがわたしを暗闇の中に送りこむのなら、わたしは行きましょう。死の中にわたしを送りこむのであっても、わたしは行きましょう」と。
愛の道では、信頼が最も本質的な事柄だ。瞑想の道では、あなたは信頼なしで進んでゆける。瞑想の道では、あなたは自分を明け渡さずとも進んでゆける。だが、愛の道は明け渡しなしでは、信頼なしでは進めない。
というのも、それがまさに最初の扉だからだ。愛は多大な要求をする。それはほとんど不可能を要求する。しかも、その第一歩でだ。愛はたやすい。だが、多くを要求する。だから、その道は非常に簡単であるにもかかわらず、それを旅する人はほとんどいない。
瞑想の道は非常に困難だ。しかし、それほど要求は強くない。だから、その道は困難で骨が折れるにもかかわらず、多くの人々がそれを旅する。
(p44)
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蜜は蓮の花の中に隠れているが
蜂はそれを知っている
馬糞の中に巣食う馬糞コガネども
蜜のことなど知らぬふり
バウルは、知識人たちは馬糞コガネだと言う。
パンディットや、学者たちは馬糞コガネだ。彼らは蓮の花への道をけっして見つけられない。ただ蜂だけが見つけだす。
蜂になるがいい。愛する人になるがいい。なぜなら、蜂は蜜を愛しているからだ。蜂はその道を見つける。
なぜ馬糞コガネはその道を見つけられないのだろう? それはある種の道を見つけはする。馬糞への道を見つけはする。
愛こそその道だからだ。
「あなたの愛するものがなんであれ、あなたはその愛するものになる。それに、あなたの愛するものがなんであれ、あなたはそれを見つける」とバウルは言う。
だから、自分の愛を警戒することだ。自動車を愛することはない。家を愛することはない。預金通帳を愛することはない。というのも、あなたはそれと同じようになってしまうからだ。あなたは馬糞になってくる。馬糞を愛することはない。
(p53)
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あなたがなにかを愛するとき、あなたはそれがどこにあるかに関して超感覚を持つ。あなたの愛がそれを探知し、その愛があなたを導く、あなたのガイドになる。
蜂は花がどこにあるか、何里も遠く離れたところから嗅ぐことができる。どうやってその道を見つけるかに関して、多くの実験と研究が蜂を相手に為されてきた。
何里も離れて花が咲く。すると、蜂が殺到してくる。蜂の中にはほとんど超感覚とも言えるものが存在している。この超感覚こそ愛以外のなにものでもない。
あなたは自分が愛している対象への道を見つける。だから、自分の愛の対象に関して、よく注意することだ。というのも、それがあなたの運命を決めてゆくからだ。あなたの愛があなたの運命だ。
(p55.56)
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