無心(ノー・マインド)の人は
マインドを休息させ、
それをエネルギーに満ちた、
この上もなく繊細な、
命じたときにはいつでも活動に
取りかかれるものにとどめておく。
無心を体験した人びと、
彼らのことばが独自の不思議な力を
持ち始めるのは偶然ではない。
彼らが
自分のマインドを使うとき、
それにはカリスマがあり、
それには磁カがある。
それには途方もない自発性と、
陽が昇るまえの、
早朝の露のしずくの新鮮さがある。
そしてマインドは、
表現と創造性のため、
自然界でもっとも進化した媒体だ。
だから瞑想の人は、
別のことばで言えば無心の人は、
散文さえも詩に変えてしまう。
いかなる努力もなく、
彼のことばは
深い威厳に満ちるようになるので、
どのような論証も必要ない。
それ自体が論証になる。
そのことばが
はらんでいるパワーが
自明の真実となる。
論理や、教典からの
どんな支持も必要ない。
無心の人のことばには
本来の確信が備わっている。
それを受け取り、
聞く準備があるなら、
あなたはそれを自らのハートに感じる
——自明の真実を。
時代を遡ってみても、
ゴータマ・ブッダが自らの弟子に
反論されたことは一度もなかった。
マハヴィーラも、モーゼも、イエスにも
それはなかった。
彼らのことばそのもののなかに、
彼らの臨在そのもののなかに、
あなたを納得させる何かがあった。
あなたを改宗させようという努カは
これっぽっちもないのに、
あなたは改宗されしてしまう。
偉大なマスターたちのひとりとして
伝道師である者はいなかった。
彼らは、
誰ひとり改宗させようなどとはしなかったが、
何百万もの人びとを
改宗させてしまった。
これは奇跡だ。
だが、
その奇跡は
休息したマインド、
いつもエネルギーに満ちていて、
ごくまれにしか使われないマインドゆえに
可能になる。
あなた方に語りかけるとき、
私はマインドを使わなければならない。
ほとんど一日中、
自分の部屋に坐っているとき、
私はマインドのことはいっさい忘れる。
私はただ 純粋な沈黙だ……
そのときは
マインドは休息している。
あなた方に語りかけるとき、
それが私がマインドを使う唯一の機会だ。
ひとりでいるとき、
私は完全にひとりだから、
マインドを使う必要はない。
あなたは言っている。
「あなたが、『瞑想とは観照することだ』と
言われるのを聞くとき、
自分は理解しているように感じます。
しかし、あなたが無心(ノー・マインド)に
ついて話されるときには、
それは少しも容易なことには思えません」
容易なことに思えなくて当然だ。
なぜなら、
それはあなたの未来の可能性だからだ。
あなたはすでに瞑想を開始している。
それは初歩の段階にあるかもしれないが、
あなたは私を理解し得るような、
その一定の体験をしている。
だが瞑想を理解できるのなら、
まったく心配しなくていい。
瞑想は確実に無心へと育ってゆく——
地図がなくても、ガイドがいなくても、
すべての川が海へと流れてゆくように。
すべての川はひとつの例外もなく
最後には海へと行き着く。
すべての瞑想はひとつの例外もなく
最後には無心の境地へと行き着く。
だが、
ガンジスがヒマラヤのなかにあって、
山々や谷のなかをさまよっているとき、
海とは何かをまったく知らず、
海の存在を想像することもできないのは
自然なことだ。
だがそれは大洋に向かって進んでいる。
なぜなら、
水にはつねに最も低い場所を
見いだす能力が備わっているからだ。
そして海は最も低い場所だ……
だから川はヒマラヤの峰々で生まれると、
ただちにより低い場所へと動き始め、
そして最後には海を見いだすことになる。
瞑想のプロセスはそれとはちょうど反対だ。
それはより高い峰々に向けて昇ってゆき、
そして究極の頂が無心だ。
「無心」は単純なことばだが、
それはまさに光明を、
解脱を
すべての束縛からの自由を、
不死と不減性の体験を意味している。
それらは大げさなことばであり、
私はあなた方を恐れさせたくはないので、
だからこの単純なことば、
「無心」を使っている。
あなたはマインドなら知っている……
だから、
このマインドが機能していない状態を
想像することもできる。
このマインドが機能しないようになれば、
あなたは字宙のマインド、
普遍的なマインドの一部になる。
普遍的なマインドの一部になるとき、
あなたの個人的なマインドは
すばらしい召使として機能する。
それは主人を認識し、
普遍的マインドから
いまだに個人的なマインドに
つながれている人びとに
ニュースをもたらす。
私があなた方に話しているとき、
実際には宇宙が私を使っている。
私のことばは私のことばではない。
それらは普遍的な真理に属している。
それらがパワーを持ち、カリスマを持ち、
不思議な力を持っているのはそのためだ。
