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本来の私たち観照者はアリの巣をケースの外側から観ている。わかりやすく地球にしておこう、そこでは80億のアリが日夜忙しなく蠢いている。本来の私たちはケースの外側にいるものの、1匹のアリに同化したがためにその知覚対象は狭い五感に限られている。同化とはすなわち「それを自分だと思ってしまった」ということだが、それゆえもっと頑張って働かなければと思ったり、あるいは逆に怠惰でいようと思ったり、状況をコントロールしようとしてどうにかこうにか自分を守ろうとする。


もしこの自己同化が起こらなければ、私たち人間がアリのケースを見ている時のアリと同じようにアリたちはアリらしく振る舞う。が、自己同化が起こるとそこには先ほど述べたような緊張が生まれるので、アリの動きは本来の動きよりも不自然になる。当然ケースの外から見た時のようなアリの巣全体の美しさとか自然のダイナミズムといったものにも乱れが生まれる。


観照者、ケースの外側の視点からすれば「まあ別にどっちでもよくね?」という感じではあるが、やはり1匹のアリとしては重要な問題である。自己同化せずに自然に生きれば全体と調和して生きることができてそこには独自の美しさが生まれるし、一方で自己同化して不自然に生きれば当然乱れが生じそこには独自の醜さが生まれる。


瞑想とは1匹の自然なアリになるためのものだ。宇宙から分離した1匹の「自分を持ったアリ」ではなく、「自分を持たぬタダのアリ」…そう、まさに「アリのまま」になるために。


とまああまりお後がよろしくないので書き続けるが、瞑想というとなんだか冷めた感じ、書き換えれば「醒めた」という漢字、どこかこの生とは離れた印象を受けるかもしれない。OSHOも瞑想に関して「超然としていなさい」とか「離れて観ていなさい」とか言っていたりする。が、実際に瞑想に触れてみると、そこには人間として生きる喜びというものを再確認させてくれる何かがある。上記で言えば1匹の自然なアリのようなものだ。


食べたり、笑ったり、楽しんだり、恋したり…本当に普通の人間になる。その代表が恐らく一休のような人間だろう。たまたま今日OSHOの一休に関する本を借りてきたのでこの部分を書いているのかもしれない。先日「パスワーク」というチャネリング本を借りて読んだのだが、この本も「瞑想側」とか「虚無側」というよりはむしろ「愛側」とか「現世側」に近い。



とはいえ終わりの方に瞑想法が掲載されていたりはしていたのだが、その部分は甚だ意味不明だった記憶しかない。が、それ以外の部分は極めて学びの多い本であった。


例えば結婚であるが、OSHOの弟子でいるとOSHOが「結婚なんてナンセンスだ。愛が固定化されるわけない」などと言うのを度々聞くので、弟子である私も「はえ〜結婚って悪なんやな」なんて思想ができあがってしまったりする。が、パスワークに出てくるチャネリング媒体の「ガイド(バシャール的なやつ)」はこう言う。「あなたが一人で生きているのと、他人と暮らしているのではどちらが学びは大きいと思いますか?」。


OSHOのニュアンスで言えばどこか自由奔放な恋愛の感じを受けるが、一方でガイドは「得てしてそういった恋愛はあなたが学ぶべき相手を見つけていない状態でただ足掻いているだけです。そうやって取っ替え引っ替えにする恋愛と1人の人間を深く探求する場合とでどちらがより多くの学びを得られるでしょう?」と言う。


まあこれに関してはOSHOもそういったことは言っていたりするのだが、どうしてもOSHOは現行の社会制度に反対する人、いわばリベラル派であり、現に結婚という制度によって何十億という人間が苦しめられていることもあるので半ばそこには「人類を是正させる」的な感じが見受けられる。その言葉によって人類の大多数のレベルを引き上げることもできるが、そういった結婚のような鎖に既に縛られないレベルにいる人には有用でないケースもある。


このパスワークはそういったある程度のレベルにある人、できることなら瞑想の道を歩むなり何なりある程度自分自身として生きることができている人には勧められる。どうやら今リンクを貼り付けるためにAmazonで調べていたところパスワーク2みたいなものもあるようなので図書館でまた発注して読むことにしよう。




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