最近は「意識にエネルギーが顕れる」という感覚が強くなっている。現時点であまり良い例えが思いつかないにも関わらず記事を書き始めたのだが、水中でおならをした時に表面に浮いてくる泡のようなものだ。



今現在アニメを見るのを中断して突然記事を書き始めたのだが、この衝動もこの意識、このスペースに顕れたものだ。そこに「なぜ?」という問題はない。何の因果関係もなく、ただその衝動が顕れただけだ。もちろんその後で「気分が変わったから」「アニメに飽きたから」などと理由を頭で後付けすることはできるが、それもただ「そういう風に後付けした」というだけの話である。



私たちは責任感を負いがちだ。「自分のせいで」「自分の選択が間違ったから」などと考えてしまうが、そこに責任は何もない。例えば人を殺した場合、その社会的責任、数人殺した場合は無期懲役を受ける必要はある。が、そこに「自分のせいで」ということはない。宇宙的責任とでも言おうか、そんなものはありはしないのである。



もし殺してしまった場合、この宇宙の創造時にその肉体が人を殺すようにプログラムされていたというだけの話だ。かといって殺人を推奨しているわけでもなく、この文章を読んだからといって人を殺す人が増えるとも思わない。なぜなら「そういう風にプログラムされていないであろうから」だ。



コップに入っている水に例えよう。コップが肉体、水は感情、こぼれた水は暴力だ。水が少しだけ入っているコップであれば揺らしてもこぼれることはない。もちろん強く揺らした時は水がこぼれるであろうが、それは外部的ストレスの強さによる。たとえば愛する人を殺された場合、身体にストレスをわずかしか溜め込んでいなくても感情があふれて周りに暴力として撒き散らす可能性もありうる。



一方で並々コップに水が注がれていればすぐこぼれることは明白である。それが軽度の外部的ストレスでも、周囲に暴力として発散される。「周囲に」と書いているが、それはそのコップの性質にもよる。内側にエネルギーが向けばそのコップは病み、究極的には自殺も起こりうる。



その全てがこの宇宙空間で淡々と起こっているわけだが、その全てを「どうしようもない」で片付けるつもりはない。そのコップの水を減らすことであったり、瞑想的に生きることで暴力が起こりづらくなるという「より善い」もあるのだ。



瞑想的に生きること、自我ではなく本来の意識を軸に生きることがこの宇宙本来の流れであり「善」であるのは間違いない。そして今現在人類が生きているレベルは自我を中心としており、その善からズレている、というのも間違いない。「偽善」とでもしておこうか。



が、その「善」にしても「偽善」にしても、それは「そのように起こるようプログラムされていた」というだけだ。瞑想してより善く生きようとして宇宙本来の流れに戻ることも、死ぬまで偽善者として生きることも創造時のプログラムに含まれている。



探求者、瞑想者は最初にこの「善」を目指す。より善く、宇宙本来の流れに…と必死に瞑想するのだが、瞑想を繰り返しているとやがてその瞑想が起こること自体、日常的に「今から坐禅しよ」という衝動が顕れるタイミングであったり、坐禅していても四六時中マインドに巻き込まれていて瞑想になっていないことがあったり、普段の生活で「今ここ」にいようとしてるのにぜんぜん「今ここ」にいられなかったりと、そういった「コントロール不可能」であることすらも観えてくる。



つまり探求者は待つ必要がある。「瞑想するんだ」と強い決意を持とうが何しようが、それが起こるかどうかはコントロールできないのだ。だから冒頭にOSHOが言っていたように、ただひたすら待つ…という信頼、忍耐が必要になる。



私も初期の頃はよく大乘住職に「どんだけ瞑想したらええねん? おおん!?」とくだらない質問をしたりしていたが、今ではだいぶ落ち着いている。瞑想そのものに忍耐力を養うものがあるのかもしれないが、私は待ち時間というのを苦にしない。スーパーだろうが、電車だろうが、人であろうが、私は全面的な信頼を持って待てる。それが宇宙の、神のプログラム通りに動き、必要な時に必要なものが運ばれてくるという確信があるからだ。そんな…個人が多少偽善的な行動を起こしたとして、私が待てないはずあるわけがない。私は神を待っているのだ。



そしてまた、私は信頼されるととても嬉しい。大乘住職は当時ほんの20歳そこそこの私を全面的に信頼してくれた。もはや十分とか、十二分とかいうレベルですらないくらいにだ。であるからして、私に対して少なからず信頼してくれた人に対しては報いたいという気持ちがとても強い。それがどんな人間であれ、どんな行いをしてきたであれ、当時の私よりはマシに違いない。ま、当時の、そして今の私のどうしようもなさは私のみぞ知るのだが…!



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ご無沙汰です。
メールありがとうございます。

人間である以上、本然のチカラとして「思考を観照する能力」というものは備わっているはずです・・。
が、多くの人たちはこの観照、瞑想というものに殆ど興味がないので、自分にその能力があることすら忘れ果ててしまっているというのが現状でしょう。

しかし、◯◯君のように真理を探究したいと、しかも瞑想のミチを歩み始めたヒトにとって、このような問題があるはずもありません。

問題は(ミチを歩み始めたヒトの多くがそうですが)、性急に結果を求め過ぎるという所にあります。
一刻も早く結果を得たいという欲求(◯◯君の状況では「思考と思考の隙間を見たい」という欲求ですね)が観照を邪魔してしまっているということだと思います。
思考と思考の隙間は、「見よう」として見えるものではないという基本的な性質があることを忘れてはいけないと思います。

欲は緊張を伴います。
ただリラックスして、あるがままに何の判断もせず思考を観る・・と自然にその隙間が見えてくる(見えてしまう)・・
ということです。
自分(エゴ)の側では何にもせず、ただ観ているだけ・・!
コトは自然に起こってくる・・見えてくる・・!

こういった種類の事に関して、吾々ができる唯一のことは「待つ」ということだけです。
いつ起こるか分からない「そのこと」を大いなる信頼を持って、瞑想のプロセスを遊び心を持ちながら、
そして楽しみながらヒタスラ「待つ」ということです。
瞑想はエゴがコントロールしようとすればするほど遠ざかっていく性質のものです。
踊るように歌うように、この生を祝いながら待つわけです・・。

瞑想のミチを歩み始めた◯◯君が、「思考を観照できない人間」であるはずはありません!!
心落ち着け、どうぞじっくり「観照」を楽しんで下さい


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お返事遅くなってしまいました。

探求にはいくつかのミチが存在しています。
観照もその中の一つです。

古来、人間は各々に個性があり、それぞれの個性、性質にあった探求方法があると言われています。
それを見つけ出し、全身全霊を込めてそのミチに没頭することが必要でしょう・・。

しかし、どうしたらそれが見つけられるのか・・
Oshoは、ミチの探し方を求める弟子の質問にこのように答えています。

わからなければ、とりあえず色々な方法を試していく、
その中に必ず「これだ!」というものが見つかるだろう・・ということを言ってくれてます。
そして、「色々試す」といっても、それらを最初から最後までやる必要はない、少し始めれば
それが自分にフィットするのかしないのかが分かるはずだと言います。

要するに、少し始めて良い感じがしたら進めば良いし、何か違うと感じたら、その他のものをやってみる・・、
そんな感じでしょうか・・。

何はともあれ・・!!
「真理を求める渇き、飢え」がすべてではないか・・と思っています。
本当にそのものを求めたいと人間が渇望した時、存在はその人にとって最上のものをプレゼントしてくれます。
この宇宙は「私(探求者)」をその人生の局面、場面に応じた最高のものをくれるのです。

小生の場合も、深く深く願いました・・絶望の中で深く真理を渇望したのです。
存在はギフトをくれました。
それは・・Oshoの本(この中で「観照」に出会いました)であったり、Oshoの古くからの弟子Asangaとの出会いであったり、
その他諸々、何気ない友人との会話であったり、ある時は人間関係のトラブルであったり・・!
それこそありとあらゆる方法で、存在は導いてくれるのです。

深く、魂の奥底から「これ」を渇望すること・・これに尽きるでしょう!
自ずと道は開かれ、自然に「自分のミチ」を発見し、それを歩んでいることになるでしょう。

マインドで探しても多くの時間がかかるだけで、結局は分からずじまい・・ということも考えられます。
Oshoは「内なる声を聴きなさい」とも言っています。
縁のある法に学べという仏教の言葉もありますが、その「渇望」「内なる叫び」と共に色々と探してみる・・これが良いと思います。

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