コピペ侍2023冬。ん…? 暦上は春なのか? 冬なのか?
と、適当な文章で終わらせようと思っていたのだが、そういやそもそも著作権法的に「その引用先を引用する明確な必要性」みたいなものが必要だった気がする。まあそんな法律ゴリゴリに破ろうとは思っていたが、なんか書く気が起きたのでやっぱり書く。
まず第一に、私たちは自然であることで何かトラブルに巻き込まれるのではないかと心配する。「自分でこうしなきゃこうなってしまう」という類のものだ。その心配は私も重々わかるのだが、自然に明け渡せば明け渡すほど「逆に」宇宙は私たちに親切である。これは私もたびたび経験している。
そもそも人間以外の動植物はすべて自分を持っていない。が、それでもと言うべきか、それだからと言うべきか、彼らは伸び伸びと生きているわけである。人間が想定する最悪の事態というのは死であるが、では私たちは自分の力でなんとかコントロールして死を回避し生き延びようとして、そこで得た生というのは喜びに満ちているのだろうか? この宇宙が最初にプログラムしたそのプログラム以上の生を得られるだろうか?
「至上の生」というのは動植物たちの生だ。それは「最高」というよりも「最低」に近い。人間はみな理想をかかげ、自分たちの「最高」を持っているが、その「最高」を握りしめて数十年生きてきて人生は喜びに溢れていたであろうか?
最近ではどうにか自分のことを世間の理想、「最高」であることをアピールしようとしている人を多く見る。また逆に「私は自然派なんだ」と「最低派」であることをアピールする「最高」の人たちもよく見る。とにかく自己イメージを守ること、他人にどう見られるかを第一に生きている人ばかりである。
そういった人たちは私から見れば本物の「最低」だ。それは動植物たちの至上の「最低」ではなく、動植物未満の、産まれてから死ぬまで一度も生物として生きたことがない、本当の本物の「最低」だ。
と、↑を書いてOSHOの講話をコピペして一度終わりにしたのだが、そういや私が世話になっている大乘住職が自然について書いていたのを思い出したのでそれもコピペしておく。
今にも昼寝しそうな具合の身体でバスケのBリーグを見ながらこの部分を書いているのだが、バスケット選手というのはまあ無碍自在に身体が動くものだ。こんなにも頑丈でスムーズに動く肉体にも関わらず、社会的な都合で彼らもコロナワクチンを打たざるを得ない。そして結構な数のスポーツ選手がそのワクチンによって(ただし因果関係はないとされる)死んでいるのだから残念な話である。
と書いた後に更に書き足す。というのもバスケというのは第二ピリオドと第三ピリオドの間にハーフタイムがあるのだが、その間は暇なのでテレビでゲーム配信を見ていた。そしてしばらくすると時間も全く見ずに、突然身体が動いてリモコンを持ち、バスケの試合に画面を切り替える…すると第三ピリオド開始2秒前であった。こうして自然は、この宇宙は私たちの面倒を見てくれているわけである。
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自然とは至善のこと・・
至善・・善に至るということ
この全宇宙・・この世あの世もすべて・・
すべては自然・・即ち至善・・
当然、人間の身体も自然の一部
刻一刻と働き続ける至善のチカラが休みなく働いている
呼吸 食べること・・
新しいエネルギーを身体に取り込み 要らないものは外に出す
常に身体の隅々や精神をも浄化しながら
その健康を維持運営しているという不可思議な神秘が刻一刻と働いている
この瞬間にも心臓が動き血液を循環させ、全身に行き渡らせている
無数に連動する細胞が叡智を働かせこの身体を維持しようと活躍している
これも古来の智慧を殆ど迷信というカテゴリーに押しやってしまった現在の科学がようやく少しだけ捉えた身体の働きの一部に過ぎない
そこにはさらに精神的世界や霊的世界のエネルギーが働いている
喜びや笑いが免疫力を向上させるということなどは、その神秘世界の入り口を少しだけ覗いたようなものだろう
だが人知は傲慢にも現代科学とやらが発展途上のものということをすっかり忘れてしまったのだろうか
あたかも人間の身体を機械やロボットのようにに貶めてしまったかのように見える・・
傲慢で愚かな者達は大きな声で現代科学、医学を至上のものと言い続けた
金銭欲や物欲、そして権勢欲に乗っ取られた人間達はそれを言い続けた
そして多くの民はそれを信じた
それは昨日今日はじまったわけではない
人間の・・大自然の神秘、尊厳を無視した・・
いや若しかすると故意に覆い隠したのだろうか・・
風邪をひく、熱が出る、咳が出る、痰が出る・・
これを多くのヒトは病気だと言う
腹痛が起こる 下痢をする・・これを多くのヒトは病気だと言う
いや、これは浄化なのだ・・
良くなる為の変化・・心身を健康な状態に維持するための変化・・
清浄化する働きに他ならない・・
本来は喜ぶべきもの・・この神秘なる働きを大いに喜び感謝すべきもの・・
しかし、多くのヒトたちはこれを病気と誤解してしまう
そして、せっかくの浄化作用を・・
身体を浄化して健康になってゆく働きを止めてしまう
その神秘なるシステムを鈍化し、人間の生命力を弱めてしまうクスリというものを体内に摂り入れることになる
身体は毒され 弱り 抵抗力を奪い去ってゆく
神秘はますます隠され 持って生まれた不可思議な仕組みを損なってゆく
あたかもロボットを修理するように身体にメスを入れ
電線をつなぐように血管を繋ぎ、潤滑油やサビ止めを入れるようにクスリを摂取する
神経を鈍らせ、まるで病気が治ったかのように見せかけもする
化学物質は身体に溜まり続け
生命力や免疫力をはじめとする不可思議な仕組みを蝕んでゆく
あらゆる慢性病やアレルギー、業病などなど・・
一生クスリを飲み続けなければならない身体へと変化してゆく
そして何より・・それらを疑問にも思わず受け入れ
クスリを手に入れるために多くのヒトたちは自ら進んで病院へ行く
医師やクスリというものを熱烈的に崇拝する多くの人々
これはまさに宗教、いやカルトに群がる信者のようだ
自らの内で囁いている直感や心の声などには耳栓をして、あたかもカルト信者のように現代医学の権威というものに盲目的な信仰を捧げている
すべては自らの身体や精神の神秘を観ようともせず・・
ましてやそれを喜ぶということもなく・・
限りなく精妙で微細かつパワフルな
今此処にあって営み続けているこの不可思議システムを無視してしまった報いなのだろうか
最早・・薬漬けになった身体
クスリに依存した身体や精神
目を覚まさない限り、自らの持つ神秘を思い起こさない限り、本来の健康を楽しむことは不可能に近い
薄目でも・・薄目でもいいから・・少しでも目を開けてみれば・・
自分の持っている神秘を・・
すでに今此処にあって、働き続けている神秘を観ることができる
それはあまりにも明らかな、ごく自然のことであるから
病気は作り出され続けている
神秘のシステムが働いて熱を出したり下痢をしたりする
そのような健康を維持しようとしている働きに病名を付けて病気ということにしてしまう
そうなるとカルト信者マインドは、さあ大変だということでその「宗教指導者」にすがり指示を仰ぐ
そしてクスリを飲む
クスリは本来毒であるので身体のシステムを壊し、さらに重い病気を生んでゆく
そしてさらにクスリを飲む・・無意識であればこの悪循環は一生続く・・
眠りこけ・・この悪循環を望んでいるのなら・・それも自由だ
眠りこけて・・夢遊の中に安住したいというのなら・・それも自由だろう
殆どのヒトたちは眠りを貪っている
しかし・・!
私たちは大いなる至善に恵まれその只中で生きている
これは紛れもない真実だ
kuuhaku
*注
小生はこの40年以上に渡って殆ど薬というものを摂ることなく過ごしています。
身体が丈夫なのかというとそうでもありません。
風邪をひいて熱も出します。尿管結石も体験しましたし、腹痛、下痢、頭痛や腰痛もよく起こします。
しかし・・その様な状況でも薬を飲んだり医者にかかったことはほとんどありません。
「ほとんど」と言ったのは、ギックリ腰をした時に初めて救急車で運ばれ、痛み止めに座薬を入れられたことがあるからです。
小生は病気と言われているこれらの症状が起こっている時・・
熱が出て体内の毒素が溶け、そして鼻水や痰や下痢になって外に排出される時・・
ある時は痛みを伴うけれども、それはまさに健康を維持促進する働きだという喜びを感じます。
こんな嬉しいことはないので、そのたびに喜んでいるわけです。
楽しい浄化のセレブレーション!ありがたいことです!
病気という思い込みから自由になると、そこには存在の自由無碍で人知では計り知れない営みがあることを見ることができます。
とは言っても、小生は現代医学を全面的に否定するつもりはないのです。
大怪我や大火傷をした時など緊急時の処置や、やむを得ない手術や投薬など現代医療が必要な場面は多々あることと思います。
しかし、あまりにも現代医学や科学を盲目的に信奉してしまった結果、吾々の身体が生まれながらに携えている神秘的なシステムの一部である治癒力や免疫力というものを見失ってしまったように見えるのです・・。
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https://www.osho.com/ja/read/featured-articles/other-myself/to-be-nice-or-natural
良い顔をするべきか、自然でいるべきか?
質問者――そんなことをしたら友だちをたくさん失ってしまいます……正直でいるのは代償が大きすぎます。
いいや、自然になったとたん、その代償が大きすぎることを実感する、なんてことはない。とんでもない! 長い目で見れば、自然でいることはつねに有益だ。抑圧はあなたにものごとがコントロールされていて、あらゆることがうまくいっているという、偽りの印象を与えるかもしれない。最終的には、あなたは大きな代償を支払わねばならない。そのときでは遅すぎる、あなたにできることはない。それがあらゆる人に対してなされてきた、母親はみんなそれをすべての子どもたちにした。
自制のほうが簡単だった、とあなたは思うかね? すべての精神科医は母親がやったことを洗い流そうとしているにすぎない。精神科の仕事はみんな母親がやったことを元に戻すことだ、彼らの仕事はまさにそれなのだ。
母親たちが私の言うことを聞けば、精神科医は死ぬしかない、飢えるしかない。それは大きな代償を伴う。精神病院にいる狂人たちはみんな抑制しすぎた母親たちが原因だ。
質問者――どんなものが出てくるかわからないのです!
出てこさせればいい! 事前に知る必要などあるかね? 事前に知っていたら、それは偽物になってしまう。自然でいるとは、予測がつかないということだ。自然でいなさい、なにが起ころうと起こらせればいい。
(あなたの娘は)あなたが自然でいても嫌がったりなどしないはずだ、彼女は理解するだろう。子どもたちはよく理解している。子どもたちがお父さんとお母さんが自然で、正直でいるのを見たら、あなたを信用することができたら、あなたが怒っているのは、あなたが怒っているからだと知ったら。あなたが優しくするのは、あなたが愛情深いからだと。あなたはどんなときでも正直だと、彼らが知ったら……。(あなたの娘が)自分の目を信じることができれば、あなたは腹を立て、それを表現しているのだと、彼女は理解するだろう。子どもたちには理解力があるから、彼女はあなたを許すことができる。だが、あなたがほんとうは怒っているのに微笑んでいることを、彼女が知ったなら、許すことはできない。あなたは娘をだましている。
ときにはあなたも腹を立てる、あなたはまだ超人ではないからね、幸いなことに! あなたは怒っていい。それに子どもはどこから学ぶのか? 彼女はあなたから学ぶしかないから、自然と、外でも同じことをする。あなたが怒っていたら、彼女は外に行ってそれを(だれかに)やる……。彼女はどこかで練習しなければならない。彼女は学ばねばならない、ほかにどうやって学ぶのか? 子どもたちはそうやって学んでいく。だから怒ることで怒ることを学ばせ、優しくすることであなたの愛情深さを学ばせ、いつも正直でいることで正直さをも学ばせるがいい。それがあなたにできるすべてだ。ほかにはなにも必要ない。とにかく気楽にやりなさい。お金をやりたくなかったら、やりたくないとただ言いなさい! 私たちがいつもやるのはうわべをとりつくろうことだ。私たちはいつもうわべをとりつくろい、ほんとうはあげたいのだが、子どもによくないからあげないと言う。
たんにこう言いなさい、自分はケチだから、この5ルピーをおまえにあげたくはない、と! どうしてやらなきゃいけない? やりたくなんかない! この5ルピーはどうやっても手放すもんか! 事実は事実だ! 実際にはどうするか? あなたは5ルピーをあげたくないのに、(娘に)うわべをとりつくろうために、5ルピーどころか50ルピーでもあげたいが、子どもによくないからあげない、とあなたは言う。アイスクリームを食べに行ってしまうかもしれない、あれやこれをするかもしれない、と。これはまったくばかげている! シンプルにやりなさい。たった5ルピーでもあげられない、それだって大きな出費だ、と言いなさい。財布から5ルピーなくなっただけで、あなたは一晩中寝られない! はっきりしなさい……シンプルで、正直でいれば、彼女は理解するだろう。
けっして抑制しようとしたり、うわべを偽ってはいけない。それはだれもがやっていること、あらゆる人がやられていることだ。私のサニヤシンはそんなことをしてほしくない。(あなたの娘が)精神科に通うのを避けることができたら、それだけで十分だ。あなたは自分の責任を果たした。彼女が将来的にもヤノフや原初療法を必要としないなら、もう完璧だ! 反対に娘をコントロールしすぎたら、彼女はヤノフ派の理論の実証例になってしまうだろう!
とにかく自然で、正直でいなさい。そして、それは代償を伴わない、と私は言いたい。真実は代償を伴わない、代償を伴うのは偽りだけだ。だが、最初は、偽ったほうが得をする、正直でいると損をすると見える。長い目で見たら、真実がつねに勝つ、偽りがいつも負ける。
それはあなたには難しいだろう、というのも、うそをつくほうが簡単だからだ。あなたはそんなふうにしつけられたし、母親はあなたをそんなふうにしつけたはずだ、だからいまあなたは(娘に)同じことをしようとする。変わりなさい! 少なくとも母親と同じにはならないことだ。
だれかをコントロールする自分は何様なのか? なにが正しくてなにが間違っているのか、私たちは知っているのか? だからせいぜい自然でいること、そしてすべてがうまくいくことを願うしかない。自然でいなさい、祈りに満ちて。
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